(6)最終回
いまさらポストモダンの議論を引き合いに出すまでもなく、われわれには世界の全体を見渡すことは不可能である。
そもそも、この世のすべての問題を引き受け、それらをまるごと解決する方法を示すことなど、はじめから不可能だし、誰もそんなものは求めていない。
にもかかわらず、あいもかわらず「バスチーユへ!」と叫んでいるのがプチ・サルトルなのである。
彼らは叫ぶだけで満足し、<語りえぬもの>の諸問題をほったらかしにしている。
しかし、そんなことはもうどうでもいい。
問題は彼らではない。
われわれに迫られた課題は、この全体を見渡すことが不可能な世界の中で、それが<語りうるもの>だろうと<語りえぬもの>だろうと、個々の問題に対峙し、局所の現実を見極め、そこで判断し、その都度の活動を決めることである。
そこで必要となるのは、世界で普遍的に成立する<正しい意見>や、永劫不変の形而上学などではない。
われわれに必要なのは、まさに現在目の前にしている個別の現実において機能する、局所の形而上学である。
それは、サブサハラの形而上学であり、インドシナの形而上学であり、仙南圏の形而上学である。
あるいは、人類の形而上学であり、諸科学の形而上学であり、ウェブ空間の形而上学である。
これはどういうことか?
それを説明するには、まず<世界>という言葉の意味を明らかにしなくてはならない。
***
<世界>とは何か。
それは生物の一切の活動が到達しうる領域である。
あるいは、私の一挙一動に対して、人類に限らず生物による反応が返ってくる可能性をもつ範囲のことである。
生物の活動がこの惑星上に限定されている現状では、端的に<世界>はこの惑星の表面を覆う領域を指す。
この<世界>は、2つの力によって規定されている。
ひとつは、生物の活動の無際限な可能性を局所において縮減している力である。
それは生物種であり、気候、地形であり、民族、言語、習慣である。
私はこれらそれぞれによって形成された<世界>の地平を<土地=land>とよぶ。
もうひとつは、生物の活動を<土地>を超えて結びつけている力である。
この力は、ただ生物をこの惑星上に生息させている。
それは、この惑星の重力である。
私は重力によって形成された<世界>の地平を<地面=ground>とよぶ。
いかなる生物の活動も、<土地>と<地面>から逃れることはできない。
この<土地>と<地面>はどのような関係にあるのか。
もろもろの<土地>はすべて<地面>の上にある。
そのどれかひとつが<地面>を覆いつくすことは決してない。
なぜなら<土地>と<地面>を形成する力は異なるからである。
<土地>の境界は必ずしも地理的境界と一致するわけではなく、常に<地面>の上を移動し、重なり合い、互いに干渉しあっている。
このとき、相対的にいずれかの<土地>が他の<土地>に強く影響することはあっても、そこに絶対的な階層が形成されることはない。
例えば諸科学、市場経済、交通網、インターネットを含む国際的な情報網もまた、それぞれが<土地>をなしている。
つまり、<土地>と<土地>のあいだから生ずるものであっても、それが生物の活動領域である限りにおいてひとつの<土地>を形成するのであって、すべての<土地>を統括する特権的な<土地>というものはない。
<地面>の上では、この<土地>と<土地>の相克が、常に至るところで展開されている。
さて、いま、われわれに必要なもの。
それは、この個々の<土地>で機能する局所の思想である。
これを<土地の形而上学>という。
<土地の形而上学>は、その<土地>においてのみ機能するものであって、<土地>の時間変化や別の<土地>の浸透によって解体され再構成されるものである。
もう少し具体的に説明するために、ふたたび「飢えた子」を例にしよう。
サルトルが「飢えた子を前に・・・」と問うとき、「飢えた子」は無条件に救われるか、ひとまとめにして見捨てられている存在である。
そこには世界中の「飢えた子」を把握する視線が前提とされている。
しかし、すでに述べたように、世界中の「飢えた子」の全体像を把握することは不可能だし、ましてや地球上のすべての人間存在が等しくこの問題に関わることを前提とした議論は現実的に機能しない。
だから、この問いについては、<土地>ごとに議論され、<土地>ごとに活動が繰り広げられる。
もちろん諸学の領域を超えた「学際的な議論」や国家を超えた「国際的な活動」がなされるだろうし、現になされているが、それ自体もまたひとつの<土地>を形成している。
その国際性が形成する<土地>が他の領域に影響しうるかどうかは、どこまでも<土地>相互の相克の問題でしかない。
結果として、<土地>ごとに「飢えた子」をめぐる活動は異なってくるだろう。
ある<土地>では条件つきで救うことになり、別の<土地>では無条件に無視することになるかもしれない。
それでいいのである。
すべての<土地>を貫く<正しい意見>が不可能である以上、そんなものは必要がない。
もちろん、それでも「一切の「飢えた子」を救わなくてはならない」と想うものはいるだろう。
しかし、そのものも、自らのおかれた<土地>における活動によって、他の諸々の<土地>との相克を経ることでしか、その想いに迫ることはできない。
何ものも<土地>から逃れて活動することはできない。
その<土地>における活動を規定するのが<土地の形而上学>なのである。
では、この<土地の形而上学>はどのようにして導かれるのだろうか。
<土地の形而上学>は、決して抽象的思考によって演繹的に導かれるものではない。
それはすでにもろもろの<土地>で機能しているものである。
だから、われわれは<土地>の機能を見極めることでそれを構成しなくてはならない。
ただ、実際にそうするには根本的な問題がある。
<土地>ごとの形而上学をどう組み立てていくのかという知が、われわれには欠けているのだ。
<土地の形而上学>を構築するには、<土地>の境界を見極め、<土地>を規定する力の諸作用を見極めなくてはならない。
どうすればいいのか。
このとき、まさしく言明と<語りえぬもの>をともに思考することが必要となるのである。
***
われわれはすでに多くの知を手にしている。
われわれの手には、「これはこうである」という膨大な科学知<エピステーメー>がある。
そして、「こうすればこうなる」という膨大な技術知<テクネー>がある。
しかし、われわれはまだこの両者を結ぶ知を手にしていない。
「これはこうである」と「こうすればこうなる」を結ぶ知。
それは「なにができて、なにができないか」という知である。
この知は、<エピステーメー>とも<テクネー>とも、根本的に性質を異にする。
<エピステーメー>と<テクネー>は、現状では言明に完全に還元されている。
しかし「なにができて、なにができないか」という知を手にするには、言明を超えて<語りえぬもの>の領域に踏み込んでいかなくてはならない。
そして、この知を手にしたとき、現在の<エピステーメー>と<テクネー>は再編成を余儀なくされるだろう。
それが<土地の形而上学>の出発点である。
この<エピステーメー>と<テクネー>の地平となる知、あるいは<語りえぬもの>の領域に分け入っていく知。
私はこれを<哲学>とよぶ。
<哲学>は、ただ「なにができて、なにができないか」を示すだけである。
各々の<土地>で何をなすべきかは、その知によって構成される<土地の形而上学>が決める。
われわれに必要なのは、決して一元化されることのない<土地>の思想を可能にする<哲学>なのである。
では<哲学>とはいかなるものか。
ここではそのアウトラインを示すにとどめる。
<哲学>は、一貫してわれわれには何が可能なのかという問いに貫かれている。
したがってそれは、あらゆる可能なものの領域を尽くすことからはじまる。
具体的には一切の形式の可能性の消尽によって、形式化のプロセスを再構成する。
その上で、形式と機能の関係を網羅的に解明する。
ただし、それを記述するには、しかるべき方法を採用しなくてはならない。
なぜならこれは言明に先立つ作業だからである。
すくなくとも、日記に記すようなものではないだろう。
***
<哲学>への道のりは決して平坦ではない。しかし、それは可能である。
(了)