チャン・デュク・タオ教授 世界的に著名で有能な哲学者
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ベトナムのような発展途上の恵まれない国から、このような有能な哲学者が生れるのは極めて特殊なことである
特殊な現象
チャン・デュク・タオ教授は、1917年9月26日、バクニン省タウソン郡ソンタプ・コミューンに生れた。父親は役人であった。若き日のタオはアルベール・サロー校*1に通い、哲学の高等最終試験で最高の成績を修めた。そしてハノイのロー・スクールに数ヶ月通った後、フランスに渡り、多くの偉大な思想家や科学者たちを輩出したエコール・ノルマル(フランス国立高等師範学校)の入学試験を受けた。
エコール・ノルマルへの入学は狭き門であり、合格者は十分な奨学金を得ることができる。多くの優れた政治家やノーベル賞受賞者がここを巣立ったが、彼らはみな「ノルマリアン」であることを大変誇りに思っている。20世紀初頭の当時、わが国の知識人の間でエコール・ノルマルは「最高の大学」と呼ばれていた。実際、これまでに、この大学の修士あるいは博士課程で学んだベトナム人は極めて少ない。その名をあげると、ホアン・スン・ハン*2、ファム・ドゥイ・キエム*3、レ・ヴァン・ティエム*4、チャン・デュク・タオ、チャン・タン・ヴァン*5などがいる。最近では、何人かの若い数学者、ゴ・バオ・チャウ、ファン・ドゥン・ヒューらがここで博士号を受けている。
1939年、タオは優秀な成績のもとにエコール・ノルマルへと進んだ。1942年にはフッサールの現象学に関する優れた論文を書き、一年後、26歳で哲学のアグレガシオン(教授資格試験)に一番で合格した。この試験は20世紀初頭には修士試験と呼ばれており、合格者はわずかという極めて難しい試験であった。現在のベトナムの修士試験とは、名前こそ同じだが似て非なるものだったのである。
当時、フランスやインドシナのいくつかの新聞は、ベトナム人が高等師範学校のアグレガシオンに一番で合格したことを、奇跡であり、類まれなる人物の出現であると報じた。そして間もなく、この若きアグレジェはフッサール現象学についての博士論文を提出する。
当時、フランスおよび多くのヨーロッパの国は、ヒトラーの独裁下にあった。西洋の哲学者たちは、みなヘーゲルやフッサールを学ぶことで民主化の精神を復活させようとしていた。
エドムント・フッサールは高名な哲学者であったが、ヒトラーによってヨーロッパにおける教育活動を禁じられていた。タオの博士論文を指導していたジャン・カヴァイエス教授は、ファシズムに抵抗してパリを離れ、「戦場」へと向かった。このような状況は、若き哲学者に大きな影響を与えたのである。
革命の闘士への志
1944年、パリは解放された。タオはアヴィニョン市で開催されたインドシナ移民会議で発言を求められた。当時のアヴィニョン市長は共産党員であった。ここでタオはインドシナの民主化政策を求める提言を行なう。
そして、ベトナム8月革命*6の成功が、タオの情熱をいっそう政治活動へと傾けることとなる。彼はベトナムとホー・チ・ミン政権を支持するよう、報道機関への働きかけと宣伝活動を行なった。記者会見でフランス人のジャーナリストに「フランス遠征軍がベトナムに上陸したらベトナム人はどう出迎えるのか」と聞かれたとき、タオは激しい口調でこう答えた。「戦争だ!」。
1945年10月、彼と50人の在仏ベトナム人は、治安を乱したという理由で投獄された。この件についてL'Humanit醇P紙、Les Temps modernes紙はフランス政府を強く非難する記事を書いた。
監房でのひどい仕打ちのなかでも、タオはさまざまな興味深い考察を行なった。釈放された後、彼はベトミン・インドシナ共産党に対する中傷を批判する記事を書き続けた。
1946年、ホー・チ・ミン大統領がフランスを訪れた際、タオはホーおじさん*7に、博士課程終了後は祖国に戻り、革命に参加したいという情熱を語った。
1951年、タオの博士論文『現象学と弁証法的唯物論』という368ページの本がミン・タム出版社から出版された。
哲学の古典
数ヵ月後、ホーチミン大統領との約束を果たすため、タオはフランスを離れ、ロンドン、プラハ、モスクワ、北京を経てタンタオへと戻った。そして戦乱のさ中、大学教授となり、1953年には書記長局でトロン・チンの「レジスタンスの戦争は成功する」をフランス語に訳した。
彼はまた党の文学・歴史・地理部門(現在のベトナム社会科学研究所)の委員に任命され、文科教育大学の副学長を経て、現ハノイ国立大学の歴史学部長となった。
1958年から1965年のあいだ、たいへん悲しい出来事があったが、タオはマルクス、エンゲレス、レーニンの古典研究に打ち込み、国立政治出版局の高等研究員となった。
タオの最初の哲学的著作、『現象学と弁証法的唯物論』は、西洋の学会に大きな反響を呼び起こした。1984年にパリで刊行されたベルナール、ドロテ・ルーセ編『哲学者辞典』*8によると、このベトナム人哲学者による「驚嘆すべき仕事」は、鋭い眼差しで物事をみつめ、明快に記されたものであり、まさに「古典と呼ぶにふさわしい」。それは「多くの若い哲学者に大きな影響を与えたのである」。
この2725ページもある『哲学者辞典』では、古代から現代に至るまでの世界中の哲学者の生い立ちや業績が紹介されている。何人かはたったの数行であるが、チャン・デュク・タオの項目には大きく3ページが割かれているのである。
その業績はフランスの知識人に受け継がれた
1973年、タオの『言語と意識の起源』と題する344ページの研究書が、パリの社会出版局から出版された。出版社はその紹介の中で、このベトナム人哲学者の達成を「現在のフランスの若い知性は、みな高等師範学校で彼の講義を聞き、その1951年の著作から学んだのである」と述べている。
そして、たくさんの彼のエッセイがパリのLa Pens醇Pe誌に掲載された。
1978年、ブタペストのゴールドラット社は、タオの『言語と意識の起源』を翻訳し、彼にもうひとつの哲学書を書くよう勧めた。アメリカの出版社も『現象学と弁証法的唯物論』を英訳し、出版した。さらに彼のいくつかの論文がイギリス、ドイツで出版され、日本語やスペイン語に翻訳された。
ドイツのある哲学研究会は、タオをベルリンに招聘し、人間とは何かについて見解を求めた。
1988年、タオは、マルクスとその現代哲学的意味について論じた『人間と反人間主義理論の問題』をベトナム語で書き、これはタオ自身によってフランス語に翻訳され、ホーチミン市で出版された。
学術へ打ち込むことで悲しみから逃れた
タオは若い頃から弁証法的唯物論の哲学に興味を持ち、いくつかの苦い経験にもめげず、その志を失うことはなかった。彼の人格と業績は続く世代に引き継がれていくだろう。
プライベートな生活では、タオは控えめで、物静かで、落ち着いて、純粋でそして実直な性格であったといわれている。ときに不当な扱いを受けたこともあったが、それでも彼は決して投げ出したり他人を恨んだりすることなく、その悲しみを哲学に打ち込むことで乗り越えた。
フランスに短期滞在中、タオはベトナム領事館のゲストハウスで過ごした。しかし、残念ながら病に倒れ、1993年4月24日8時10分、76歳でこの世を去った。
2000年2月、タオは『言語と意味の起源』の業績によりホーチミン賞を受賞した。幾多の困難を乗り越え、ようやくその仕事が社会に受けいれられたのである。
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