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 ひとがお互いに助け合う。それを当たり前と信じるなら、現実は悲しい。それでも、ひとを助けようとするなら、国境と闘わなくてはならない。なぜならひとを救済するのが国境であり、ひとを抑圧するのも国境だからだ。国境には3つある。第1の国境は国家と自然の境界であり、第2の国境は国家と国家の境界であり、第3の国境は国際性のなかの境界である。3つの国境は、互いに分かちがたく結びつきながら、地球上を覆っている。
 2004年6月2日、アフガニスタン北西部のバドギス州で、国境なき医師団(Médecins Sans Frontières:以下MSF)のスタッフ5人が襲撃され、殺害される事件があった。この時、タリバンは犯行声明で、MSFのような米国のために活動する団体は、さらなる攻撃の危険にさらされるだろうと述べている。MSFは、アフガニスタンで、24年以上にわたって、いかなる政党や武装グループが政権を握ろうと、一貫して中立で公平な人道援助活動を続けていた。このタリバンの主張は、あまりに不当である。しかし、アフガニスタン政府が、容疑者に逮捕状を出すこともできない状況では、活動を続けることはできない。同年6月28日、MSFはアフガニスタンにおけるすべての医療援助プログラムを閉鎖することを決定する。MSFが安全上の理由で活動地全域から撤退するのは、設立以来はじめてのことだった。
 MSFの歴史は、そのまま人道援助の歴史であり、ひとと国境との闘いの歴史でもある。1971年、MSFは、ビアフラ紛争を経験したフランス赤十字の医師たちによって設立された。医療優先、証言、独立性、公平性、中立性、ボランティアという理念を掲げ、彼らはフランスを飛び出した。このとき、MSFによる国境との闘いがはじまったのである。医療福祉は近代国家の制度として誕生したものであって、国境に先立つものではない。しかしMSFは、国家的福祉の外にある犠牲者を助けるために、第1の国境を越えたのである。この時点で、MSFは国際的福祉を目指したのであり、国際連合赤十字運動と理念を共有していたといえるだろう。
 やがてMSFは、1979年のベトナムボートピープル問題をきっかけに、大きく転換することになる。押し寄せる大量の難民を前に、人道援助の象徴性と実効性の違いを知るのである*1。その後、MSFは世界各地にセクションを設置し、個人的寄付を中心としつつ資金源を拡大し、ロジスティックスを確立していく。諸国家の加盟を前提とする国連機関や、ジュネーブ諸条約の遵守に期待する赤十字の活動は、原則的に当事国の拒否を越えることができない。第1の国境を越えても、第2の国境に拘束される。MSFは、特定の国家や国際機関から独立して活動しうる基盤を構築することで、第1の国境が規定する国家的福祉でも、第2の国境が規定する国際的福祉でもない、非国家的な人道援助を可能としたのである。
 かつてMSF理事長を努めたロニー・ブローマンは、こう論じている。実効性か証言か、援助か自助努力か、緊急性か政治性か。人道援助には、ジレンマがつきまとう。しかし、人道援助は「人道援助活動の空間」にとどまるべきだ、と。人道援助のジレンマは、国境と救済範囲のずれからうまれる。ジレンマを避けて、あらかじめ結論することは、国境に拘束されることに他ならない。しかし人道援助は、ジレンマの現場にとどまり、実際に活動しながら、個々の現実的解答を模索するべきなのである。この「人道援助活動の空間」こそが、第1と第2の国境を越えるのだ。1999年のMSFのノーベル平和賞受賞は、このような人道援助の理念の、ひとつの達成であったといえるだろう。
 しかし、人道援助には、また新たな転換期が訪れている。無数の人道援助NGOがうまれ、国家すら開発援助を越えて人道援助に参入し、人道援助を掲げる軍事活動が成立するようになった。このとき、人道援助に、新たな国境が立ちはだかる。国際性のなかの境界である。
 国民を救済する第1の国境は、国民として救済されないものをうみだした。人間を救済する第2の国境は、人間として救済されないものをうみだした。「人道援助活動の空間」は、いずれの国境も越える。しかし、国家もNGOも同様に、第1と第2の国境を越えて、この空間に参入するとき、抑圧と援助の境界が不明瞭となる。そこでは、加害者と犠牲者と援助者の境界が無数に錯綜する。いったい、誰が誰を抑圧し、誰が誰を救うのか。
 アフガニスタンで、米国を中心とする連合軍は、人道援助の名の下に軍事活動を行ってきた。一方、NGOの中には、活動中の安全を求めてNATO軍に部隊の配備拡張を要請したところもある。人道援助の独立性を主張するMSFは、そのいずれにも明確に反対していた。しかし、結局は政治的・軍事的活動と人道援助を結びつける動きに巻き込まれたのだった。まさに、MSFが切り開いてきた、その「人道援助活動の空間」において。
 MSFインターナショナル会長のローワン・ギルズは、2004年11月のスピーチで述べている。

 人道主義は、傷ついた人を前にした人間にとって、本能的で実際的な反応です。それは非政治的で、本来的に市民の行動なのです。しかし、この理念が脅かされ、MSFおよびすべての人道組織に、厳しい選択が迫られています。もし(アフガニスタンでのような)攻撃のみならず、この(政治的・軍事的戦略と人道援助を結びつけようとする)操作に対して強く抵抗しなければ、(紛争当事者の)どちらかに加担することになります。そして敵として利用され、扱われることを余儀なくされるのです。

 抵抗はしなくてはならない。しかし、それだけでは、何も変わらないだろう。そもそも、人道援助が新たな段階を迎えていることを認識しなくてはならない。ブローマンのいう「人道援助活動の空間」は、第1と第2の国境を越える。いま、人道援助が直面している第3の国境は、その「人道援助活動の空間」のなかにある。
 2004年11月、MSFはイラクでの活動停止を決定した。人道援助の新たな闘いは、もはや国境を越える闘いではない。それは、国境を見極め、国境を操作する闘いである。

Médecins Sans Frontières (MSF) International
http://www.msf.or.jp/index.php
「明日への対話」人道援助、そのジレンマ―「国境なき医師団」の経験から

*1:これをきっかけに、MSF創設者のひとり、ベルナール・クシュネールはMSFを離れ、Médecins du Monde:メドゥサン・デュ・モンド(世界の医療団)を創設する