ニャチャンにて

innhatrang2008-07-30



仕事を後任に引き継ぎ、ニャチャンを離れることになった。

2年以上暮らしたホー・スン・フン通り31番地の家も引き払った。

思えば、ここが社会人になって一番長く住んだ家だったかもしれない。

今日、昼前のフライトでニャチャンを発ち、サイゴンへ。

明朝、福岡に到着予定である。

2006年7月、はじめてベトナムに足を踏み入れた日に始めたこの日記も、区切りのよい本日をもってひとまず終了としたい。


***


すこしあとがきめいたことを記しておこう。

私は以前、パレスチナ・ガザ自治区で仕事をしていたときにも日記をつけていたことがある。

このブログはその続編のつもりで書いてきたものである。

パレスチナでは、常にエドワード・サイードを意識していたが、ベトナムではそれがチャン・デュク・タオであった。

彼らのように徹底して理論的に考えながら、否応なく<土地>に巻き込まれていった思想家たちに、私は興味を覚える。

ある意味では、それはフッサールハイデガーサルトル、あるいは東浩紀という同い年の日本の思想家についてもあてはまるかもしれない。

彼らの何が興味深いのか。

それは、決してその思想内容ではない。

ましてや彼らの生き方でもない。

私が興味を抱くのは、彼らの思考を絡めとる<土地>の力である。

誰も<土地>から逃れることはできない。

その意味では、<土地>なしに思想はありえない。

では、<土地>に埋没することなしに考えることはできるのか、できるとすれば、どうすればいいのか。

これについては、さらに考察をすすめていかなくてはならないだろう。


***


また近い将来、別の<土地>で、この続きを書きたいと思う。


鈴木 基

チャン・デュク・タオ教授   世界的に著名で有能な哲学者

遵A醇Cy l醇A bản dịch của http://www.xaluan.com/modules.php?name=News&file=article&sid=31023. Nếu c醇p hỏi cung,, xin tiếp x醇D với Motoi Suzuki.

ベトナムのような発展途上の恵まれない国から、このような有能な哲学者が生れるのは極めて特殊なことである


特殊な現象

チャン・デュク・タオ教授は、1917年9月26日、バクニン省タウソン郡ソンタプ・コミューンに生れた。父親は役人であった。若き日のタオはアルベール・サロー校*1に通い、哲学の高等最終試験で最高の成績を修めた。そしてハノイのロー・スクールに数ヶ月通った後、フランスに渡り、多くの偉大な思想家や科学者たちを輩出したエコール・ノルマル(フランス国立高等師範学校)の入学試験を受けた。

エコール・ノルマルへの入学は狭き門であり、合格者は十分な奨学金を得ることができる。多くの優れた政治家やノーベル賞受賞者がここを巣立ったが、彼らはみな「ノルマリアン」であることを大変誇りに思っている。20世紀初頭の当時、わが国の知識人の間でエコール・ノルマルは「最高の大学」と呼ばれていた。実際、これまでに、この大学の修士あるいは博士課程で学んだベトナム人は極めて少ない。その名をあげると、ホアン・スン・ハン*2、ファム・ドゥイ・キエム*3、レ・ヴァン・ティエム*4チャン・デュク・タオ、チャン・タン・ヴァン*5などがいる。最近では、何人かの若い数学者、ゴ・バオ・チャウ、ファン・ドゥン・ヒューらがここで博士号を受けている。

1939年、タオは優秀な成績のもとにエコール・ノルマルへと進んだ。1942年にはフッサール現象学に関する優れた論文を書き、一年後、26歳で哲学のアグレガシオン(教授資格試験)に一番で合格した。この試験は20世紀初頭には修士試験と呼ばれており、合格者はわずかという極めて難しい試験であった。現在のベトナム修士試験とは、名前こそ同じだが似て非なるものだったのである。

当時、フランスやインドシナのいくつかの新聞は、ベトナム人高等師範学校のアグレガシオンに一番で合格したことを、奇跡であり、類まれなる人物の出現であると報じた。そして間もなく、この若きアグレジェはフッサール現象学についての博士論文を提出する。

当時、フランスおよび多くのヨーロッパの国は、ヒトラーの独裁下にあった。西洋の哲学者たちは、みなヘーゲルフッサールを学ぶことで民主化の精神を復活させようとしていた。

エドムント・フッサールは高名な哲学者であったが、ヒトラーによってヨーロッパにおける教育活動を禁じられていた。タオの博士論文を指導していたジャン・カヴァイエス教授は、ファシズムに抵抗してパリを離れ、「戦場」へと向かった。このような状況は、若き哲学者に大きな影響を与えたのである。


革命の闘士への志

1944年、パリは解放された。タオはアヴィニョン市で開催されたインドシナ移民会議で発言を求められた。当時のアヴィニョン市長は共産党員であった。ここでタオはインドシナ民主化政策を求める提言を行なう。

そして、ベトナム8月革命*6の成功が、タオの情熱をいっそう政治活動へと傾けることとなる。彼はベトナムホー・チ・ミン政権を支持するよう、報道機関への働きかけと宣伝活動を行なった。記者会見でフランス人のジャーナリストに「フランス遠征軍がベトナムに上陸したらベトナム人はどう出迎えるのか」と聞かれたとき、タオは激しい口調でこう答えた。「戦争だ!」。

1945年10月、彼と50人の在仏ベトナム人は、治安を乱したという理由で投獄された。この件についてL'Humanit醇P紙、Les Temps modernes紙はフランス政府を強く非難する記事を書いた。

監房でのひどい仕打ちのなかでも、タオはさまざまな興味深い考察を行なった。釈放された後、彼はベトミン・インドシナ共産党に対する中傷を批判する記事を書き続けた。

1946年、ホー・チ・ミン大統領がフランスを訪れた際、タオはホーおじさん*7に、博士課程終了後は祖国に戻り、革命に参加したいという情熱を語った。

1951年、タオの博士論文『現象学弁証法唯物論』という368ページの本がミン・タム出版社から出版された。


哲学の古典

数ヵ月後、ホーチミン大統領との約束を果たすため、タオはフランスを離れ、ロンドン、プラハ、モスクワ、北京を経てタンタオへと戻った。そして戦乱のさ中、大学教授となり、1953年には書記長局でトロン・チンの「レジスタンスの戦争は成功する」をフランス語に訳した。

彼はまた党の文学・歴史・地理部門(現在のベトナム社会科学研究所)の委員に任命され、文科教育大学の副学長を経て、現ハノイ国立大学の歴史学部長となった。

1958年から1965年のあいだ、たいへん悲しい出来事があったが、タオはマルクス、エンゲレス、レーニンの古典研究に打ち込み、国立政治出版局の高等研究員となった。

タオの最初の哲学的著作、『現象学弁証法唯物論』は、西洋の学会に大きな反響を呼び起こした。1984年にパリで刊行されたベルナール、ドロテ・ルーセ編『哲学者辞典』*8によると、このベトナム人哲学者による「驚嘆すべき仕事」は、鋭い眼差しで物事をみつめ、明快に記されたものであり、まさに「古典と呼ぶにふさわしい」。それは「多くの若い哲学者に大きな影響を与えたのである」。

この2725ページもある『哲学者辞典』では、古代から現代に至るまでの世界中の哲学者の生い立ちや業績が紹介されている。何人かはたったの数行であるが、チャン・デュク・タオの項目には大きく3ページが割かれているのである。


その業績はフランスの知識人に受け継がれた

1973年、タオの『言語と意識の起源』と題する344ページの研究書が、パリの社会出版局から出版された。出版社はその紹介の中で、このベトナム人哲学者の達成を「現在のフランスの若い知性は、みな高等師範学校で彼の講義を聞き、その1951年の著作から学んだのである」と述べている。

そして、たくさんの彼のエッセイがパリのLa Pens醇Pe誌に掲載された。

1978年、ブタペストのゴールドラット社は、タオの『言語と意識の起源』を翻訳し、彼にもうひとつの哲学書を書くよう勧めた。アメリカの出版社も『現象学弁証法唯物論』を英訳し、出版した。さらに彼のいくつかの論文がイギリス、ドイツで出版され、日本語やスペイン語に翻訳された。

ドイツのある哲学研究会は、タオをベルリンに招聘し、人間とは何かについて見解を求めた。

1988年、タオは、マルクスとその現代哲学的意味について論じた『人間と反人間主義理論の問題』をベトナム語で書き、これはタオ自身によってフランス語に翻訳され、ホーチミン市で出版された。


学術へ打ち込むことで悲しみから逃れた

タオは若い頃から弁証法唯物論の哲学に興味を持ち、いくつかの苦い経験にもめげず、その志を失うことはなかった。彼の人格と業績は続く世代に引き継がれていくだろう。

プライベートな生活では、タオは控えめで、物静かで、落ち着いて、純粋でそして実直な性格であったといわれている。ときに不当な扱いを受けたこともあったが、それでも彼は決して投げ出したり他人を恨んだりすることなく、その悲しみを哲学に打ち込むことで乗り越えた。

フランスに短期滞在中、タオはベトナム領事館のゲストハウスで過ごした。しかし、残念ながら病に倒れ、1993年4月24日8時10分、76歳でこの世を去った。

2000年2月、タオは『言語と意味の起源』の業績によりホーチミン賞を受賞した。幾多の困難を乗り越え、ようやくその仕事が社会に受けいれられたのである。


H醇Am Ch醇Cu

*1:フランス植民地時代、ハノイにあったフレンチ・ハイスクール。現在のバーディン公園にあった。

*2:数学者、工学者、1908-1996。

*3:作家、1908-1974。

*4:数学者、1918-1991。

*5:作家。

*6:1945年8月のベトミン総蜂起とベトナム民主共和国の独立宣言。

*7:ホー・チ・ミンの愛称。

*8:詳細不明。どなたかご存知か?

チャン・デュク・タオの記事について


ベトナムポータルサイトwww.xaluan.comで、チャン・デュク・タオを紹介したH醇Am Ch醇Cu氏の署名記事(http://www.xaluan.com/modules.php?name=News&file=article&sid=31023)を見つけたので日本語に訳してみる。

同サイトには3回にわたってベトナム語と英語で翻訳・転載の可否について問い合わせたが、いまだ回答を得られないので、現時点では実質無許可である。

クレームがあればその時点で直ちに削除する。

なお、翻訳はベトナム語から英訳したものを、さらに日本語に訳したものである。

そのため、原文のニュアンスを正確に反映していない部分があるかもしれないが、ご容赦願いたい。

註はすべて訳註である。

ホアンキエム湖畔

innhatrang2008-07-23



昨晩、ハノイ入り。

朝8時半から国立衛生疫学研究所で会議。

ゲストを見送った後、夜、旧市街を抜けてホアンキエム湖の周りを歩く。

ハノイサイゴンと違って、どことなく薄汚れた、垢抜けない街である。

しかし、これはこれで味わい深いものがある。

前に来たときもいたのだが、湖のほとりの暗闇の中で、30人くらいの女性集団が一心不乱にパラパラのような踊りを踊っている。

あれは何かエクササイズなのだろうか。

どうせやるならもうちょっと明るいところでやったほうがいいと思うのだが、その何となく陰気な感じがハノイらしい。

ちなみに私が泊まっているホテルは旧市街のど真ん中にあるSUNSHINE3というホテルである。

一泊20ドル足らずの割りに、ベッドは広く、なんと部屋に1台デスクトップPCが置いてある(もちろんインターネットは使い放題)。



一人旅にはお薦めである。

(6)最終回


いまさらポストモダンの議論を引き合いに出すまでもなく、われわれには世界の全体を見渡すことは不可能である。

そもそも、この世のすべての問題を引き受け、それらをまるごと解決する方法を示すことなど、はじめから不可能だし、誰もそんなものは求めていない。

にもかかわらず、あいもかわらず「バスチーユへ!」と叫んでいるのがプチ・サルトルなのである。

彼らは叫ぶだけで満足し、<語りえぬもの>の諸問題をほったらかしにしている。

しかし、そんなことはもうどうでもいい。

問題は彼らではない。

われわれに迫られた課題は、この全体を見渡すことが不可能な世界の中で、それが<語りうるもの>だろうと<語りえぬもの>だろうと、個々の問題に対峙し、局所の現実を見極め、そこで判断し、その都度の活動を決めることである。

そこで必要となるのは、世界で普遍的に成立する<正しい意見>や、永劫不変の形而上学などではない。

われわれに必要なのは、まさに現在目の前にしている個別の現実において機能する、局所の形而上学である。

それは、サブサハラ形而上学であり、インドシナ形而上学であり、仙南圏の形而上学である。

あるいは、人類の形而上学であり、諸科学の形而上学であり、ウェブ空間の形而上学である。

これはどういうことか?

それを説明するには、まず<世界>という言葉の意味を明らかにしなくてはならない。


***


<世界>とは何か。

それは生物の一切の活動が到達しうる領域である。

あるいは、私の一挙一動に対して、人類に限らず生物による反応が返ってくる可能性をもつ範囲のことである。

生物の活動がこの惑星上に限定されている現状では、端的に<世界>はこの惑星の表面を覆う領域を指す。

この<世界>は、2つの力によって規定されている。

ひとつは、生物の活動の無際限な可能性を局所において縮減している力である。

それは生物種であり、気候、地形であり、民族、言語、習慣である。

私はこれらそれぞれによって形成された<世界>の地平を<土地=land>とよぶ。

もうひとつは、生物の活動を<土地>を超えて結びつけている力である。

この力は、ただ生物をこの惑星上に生息させている。

それは、この惑星の重力である。

私は重力によって形成された<世界>の地平を<地面=ground>とよぶ。

いかなる生物の活動も、<土地>と<地面>から逃れることはできない。



この<土地>と<地面>はどのような関係にあるのか。

もろもろの<土地>はすべて<地面>の上にある。

そのどれかひとつが<地面>を覆いつくすことは決してない。

なぜなら<土地>と<地面>を形成する力は異なるからである。

<土地>の境界は必ずしも地理的境界と一致するわけではなく、常に<地面>の上を移動し、重なり合い、互いに干渉しあっている。

このとき、相対的にいずれかの<土地>が他の<土地>に強く影響することはあっても、そこに絶対的な階層が形成されることはない。

例えば諸科学、市場経済、交通網、インターネットを含む国際的な情報網もまた、それぞれが<土地>をなしている。

つまり、<土地>と<土地>のあいだから生ずるものであっても、それが生物の活動領域である限りにおいてひとつの<土地>を形成するのであって、すべての<土地>を統括する特権的な<土地>というものはない。

<地面>の上では、この<土地>と<土地>の相克が、常に至るところで展開されている。


さて、いま、われわれに必要なもの。

それは、この個々の<土地>で機能する局所の思想である。

これを<土地の形而上学>という。

<土地の形而上学>は、その<土地>においてのみ機能するものであって、<土地>の時間変化や別の<土地>の浸透によって解体され再構成されるものである。

もう少し具体的に説明するために、ふたたび「飢えた子」を例にしよう。

サルトルが「飢えた子を前に・・・」と問うとき、「飢えた子」は無条件に救われるか、ひとまとめにして見捨てられている存在である。

そこには世界中の「飢えた子」を把握する視線が前提とされている。

しかし、すでに述べたように、世界中の「飢えた子」の全体像を把握することは不可能だし、ましてや地球上のすべての人間存在が等しくこの問題に関わることを前提とした議論は現実的に機能しない。

だから、この問いについては、<土地>ごとに議論され、<土地>ごとに活動が繰り広げられる。

もちろん諸学の領域を超えた「学際的な議論」や国家を超えた「国際的な活動」がなされるだろうし、現になされているが、それ自体もまたひとつの<土地>を形成している。

その国際性が形成する<土地>が他の領域に影響しうるかどうかは、どこまでも<土地>相互の相克の問題でしかない。

結果として、<土地>ごとに「飢えた子」をめぐる活動は異なってくるだろう。

ある<土地>では条件つきで救うことになり、別の<土地>では無条件に無視することになるかもしれない。

それでいいのである。

すべての<土地>を貫く<正しい意見>が不可能である以上、そんなものは必要がない。

もちろん、それでも「一切の「飢えた子」を救わなくてはならない」と想うものはいるだろう。

しかし、そのものも、自らのおかれた<土地>における活動によって、他の諸々の<土地>との相克を経ることでしか、その想いに迫ることはできない。

何ものも<土地>から逃れて活動することはできない。

その<土地>における活動を規定するのが<土地の形而上学>なのである。


では、この<土地の形而上学>はどのようにして導かれるのだろうか。

<土地の形而上学>は、決して抽象的思考によって演繹的に導かれるものではない。

それはすでにもろもろの<土地>で機能しているものである。

だから、われわれは<土地>の機能を見極めることでそれを構成しなくてはならない。

ただ、実際にそうするには根本的な問題がある。

<土地>ごとの形而上学をどう組み立てていくのかという知が、われわれには欠けているのだ。

<土地の形而上学>を構築するには、<土地>の境界を見極め、<土地>を規定する力の諸作用を見極めなくてはならない。

どうすればいいのか。

このとき、まさしく言明と<語りえぬもの>をともに思考することが必要となるのである。


***


われわれはすでに多くの知を手にしている。

われわれの手には、「これはこうである」という膨大な科学知<エピステーメー>がある。

そして、「こうすればこうなる」という膨大な技術知<テクネー>がある。

しかし、われわれはまだこの両者を結ぶ知を手にしていない。

「これはこうである」と「こうすればこうなる」を結ぶ知。

それは「なにができて、なにができないか」という知である。

この知は、<エピステーメー>とも<テクネー>とも、根本的に性質を異にする。

エピステーメー>と<テクネー>は、現状では言明に完全に還元されている。

しかし「なにができて、なにができないか」という知を手にするには、言明を超えて<語りえぬもの>の領域に踏み込んでいかなくてはならない。

そして、この知を手にしたとき、現在の<エピステーメー>と<テクネー>は再編成を余儀なくされるだろう。

それが<土地の形而上学>の出発点である。

この<エピステーメー>と<テクネー>の地平となる知、あるいは<語りえぬもの>の領域に分け入っていく知。

私はこれを<哲学>とよぶ。

<哲学>は、ただ「なにができて、なにができないか」を示すだけである。

各々の<土地>で何をなすべきかは、その知によって構成される<土地の形而上学>が決める。

われわれに必要なのは、決して一元化されることのない<土地>の思想を可能にする<哲学>なのである。


では<哲学>とはいかなるものか。

ここではそのアウトラインを示すにとどめる。


<哲学>は、一貫してわれわれには何が可能なのかという問いに貫かれている。

したがってそれは、あらゆる可能なものの領域を尽くすことからはじまる。

具体的には一切の形式の可能性の消尽によって、形式化のプロセスを再構成する。

その上で、形式と機能の関係を網羅的に解明する。


ただし、それを記述するには、しかるべき方法を採用しなくてはならない。

なぜならこれは言明に先立つ作業だからである。

すくなくとも、日記に記すようなものではないだろう。


***


<哲学>への道のりは決して平坦ではない。しかし、それは可能である。


(了)

(5)


では本題に入ろう。

私はいったい何を問題にしているのか。

それは、この20世紀的思考が言明と言明に還元されないもののあいだに打ち立てた、恣意的で限定的な関係である。

そして言明のみを思考可能なものとし、それ以外のものを十把ひとからげに思考の枠外におくものの考え方である。


20世紀的思考は、決してすべてが言明であると言っているわけではない。

はじめから言明以外に何もなければ、なにかを言明に還元する必要もないだろう。

なにかを言明へと還元する作業は、言明に還元されるところのものを要請する。

しかし、言明に還元されるところのものが、言明化によって完全に言明に移行してしまっては、還元されるところのものがなくなってしまう。

これでは、やはり言明化が成立しない。

したがって、言明化には言明に還元されないものが不可避的につきまとう。

この言明に還元されないものが<語りえぬもの>である。

このとき、言明は<語りえぬもの>については、まさに語りえず、ただ沈黙するしかない。



<図1> <語りえぬもの>について、否定するか沈黙する。


そこで20世紀的思考は、言明そのもの(言明の形式)に<語りえぬもの>を重ね合わせる。

つまり言明のみを言明化の対象とするのだ。

このとき、言明そのものにおいて、言明化のサイクルが成立する。

これが言明の再帰的構造である。

この言明の再帰的構造において、言明はそれ自身に<語りえぬもの>を含むことになる。

もう<語りえぬもの>に沈黙する必要はない。

なぜなら、語ること自体が<語りえぬもの>を示していることになるのだから。

こうして20世紀的思考は、<語りうるもの>についても<語りえぬもの>についても、等しく饒舌に語るのである。



<図2> <語りえぬもの>について間接的に饒舌に語るが、さまざまな<語りえぬもの>のあいだの違いを区別しない。


たとえば「飢えた子を前に言明に何ができるのか」という問いについて考えてみよう。

この問いに応じて、「飢えた子」について緻密に言明化することはできる。

しかし、いかに言明を尽くしても、そこに「飢えた子」と呼ばれているところの存在の「飢え」そのものは必ず残る。

それが<語りえぬもの>である。

それは思考できないもの、到達できないものであり、それ以上は追求できないものである。

それは人智を超えた超越的な現実である。

20世紀的思考は、すべてを言明に還元する一方で、その結果として生ずる言明に還元されないものについては、暴力あるいは聖なるものという烙印を押してそれ以上の深入りをみずからに禁ずる。

そのうえで「「飢え」は<語りえぬものである>」と饒舌に語る。

あるいは「「飢えた子を前に言明に何ができるのか」という問いには無限の可能性がある」と積極的に主張する。

こうして地球上の2000万人の子供たち*1の「飢え」を、十把ひとからげに不可侵な領域に追いやるのである。

この言明の再帰的構造と、その枠外におかれた広大な<語りえぬもの>の領域こそ、20世紀的思考および現在のわれわれの思考を支配している世界なのである。


この世界では、言明だけが思考可能で操作可能なものであり、問題を解決する手段である。

何か問題があれば、ひたすらそれを言明化する。

そしてそれを思考し操作する。

それが20世紀的思考にとっての問題を解決するということだ。

では、<語りえぬもの>の問題に対してはどうするのか。

もちろん、それに対しても同じように言明で立ち向かうしかない。

それは有効なのか。

言明は<語りえぬもの>の問題に作用できるのか。

できるとすればどのように作用するのか。

それはわからない。

わかるはずがない。

言明だけが思考可能なものであり、<語りえぬもの>は言明に還元されないのだから。

だから20世紀的思考は、「飢えた子を前に<正しい意見>を言えばそれで「飢え」がどうにかなるのか」と問われると、とたんに感情的になるか、開き直るか、沈黙するしかないのである。


***


こうした言明と<語りえぬもの>のあいだの絶望的な乖離は、あきらかに現在のわれわれにとって足かせとなっている。

そこでは、すべてが一様に言明に還元され、還元されないものは、ひとまとめにして<語りえぬもの>である。

しかし考えてみよう。

一概に言明といってもさまざまである。

それが言語で記述されているなら、言語の違いによって言明の作用は異なる。

同じ言語で記述されていても、土地が変われば作用は異なる。

<語りえぬもの>だって同じだ。

泣きながら暴れている子供の腕を押さえつけてワクチンを注射する。

これは<語りえぬもの>の作用か?

小さな子供を失った母親の後ろで、なにも言わず、なにもできず、ただ立ちすくんでいる。

これも同じく<語りえぬもの>の作用か?

なんでもかんでも言明化できないものを不可侵なものとしてひとくくりにしてしまっていいのか。

そもそも、栄養失調にはさまざまなタイプがあるのだし、サブサハラの「飢えた子」とインドシナの「飢えた子」は違う。

にもかかわらず、それらを十把ひとからげに思考の枠外に追いやってしまうのが20世紀的思考のやり方なのだ。

そしてその結果、広大な<語りえぬもの>の領域が形成され、そこでさまざまな問題が噴出しているにもかかわらず、そうすればどうかなるというあてもなく、ただひたすらに言明を発し続けているのが、現在のわれわれの姿なのである。

それは例えて言えば、火事場で自分の尻尾を追いかけてくるくる回っているイヌのようなものだ。

自分では激しく何かを追及し、活動的に働いていると思っているが、実際には何事もなしていないのである。


誤解しないで欲しいが、私がここで「飢えた子」を持ち出したのはひとつの例にすぎず、決して「飢えた子」を救えといっているのではない。

問題は「飢えた子」ではなく、「飢えた子」という言葉に、無条件で救わなくてはならない、あるいは仕方がないからあきらめろというどちらかの反応しかでてこない考え方である。

あるいは「飢えた子」が本当に目の前にあらわれることはないだろうという高をくくった態度である。

そして繰り返すが、私は言明や言論が役に立たないといっているのではない。

誰だって言明を用いるし、現に私のこの議論だって言明を用いている。

ただ言明は、われわれにとって可能な手段のひとつにすぎない。

私が言っているのは、それだけを特権化してそれ以外のものをひとくくりにして排除するなということだ。


***


いま、われわれに必要なことは、言明に還元されないものを不可侵な領域に追いやるのではなく、そのなかに直接分け入ることである。

そして言明と同じように<語りえぬもの>について考え、そこで何が起っていて、何が可能なのかを丁寧に見極めることである。

こんなことを言えば、20世紀的思考にとらわれたものは直ちに反論するだろう。

<語りえぬもの>については考えられない、と。

<語りえぬもの>については沈黙するか、さもなくば饒舌に語り尽くすしかないのだ、と。

しかし、誰がそんなことを決めたのだ?

なぜ言明以外に思考はありえないと、考えもせずに勝手に決め付けてしまうのだ。

それこそ思考停止というものではないか。

私はここに宣言する。

間違いなく、思考は<語りえぬもの>に到達できる。

いや、<語りえぬもの>に到達するものこそが思考とよぶに足るのである。

思考は言明のはるか先にまで届く。


(次回、最終回)

(4)

innhatrang2008-07-15



ここで少し歴史を振り返っておこう。

20世紀の前半、サルトル現象学を完成させた。

存在と無』は、一切を<あらわれ>=現象に還元する。

そこには、現象から離れて独立して存在する実体などない。

もちろん「私」も例外ではない。

「私」は現象と現象の関係そのものであって、それ以上でもそれ以下でもない。

サルトルの有名な言葉に「実存は本質に先立つ」というのがある。

これは、個別の現象どうしの関係である「意味」(=本質)が見出されるとき、現象と現象の関係そのものである「私」(=実存)は常にすでにそこにあるということである。

逆に言えば、「私」は個別の「意味」を、何にも頼ることなくひたすら選択し続けている。

まさに「人間は自由の刑に処せられている」のである。

では、実存による本質の選択が避けられない自由であるとして、実存は特定の本質を選択すべきなのか。

もし選択すべきだとすれば、何を選択すべきなのか。

こうして『存在と無』は、倫理についての問いで結ばれるのである。


しかし、現実的に考えてみよう。

「私」は決して無制約に自らの「意味」を選択できるわけではない。

どんなに「私」が決断し選択しようと、国家元首やオリンピック・メダリストになれるわけではない。

実存と本質の関係には、あらかじめ何かしらの制約がある。

それは他人との関係であり、つまり社会である。


そこでサルトルは『弁証法的理性批判』において「私」と社会の関係を描いた。

それは「私」と社会を、ともに現象と現象の関係に還元する作業である。

サルトルによれば、「私」も社会もひとしく現象と現象の関係であり、両者はお互いに結びついている。

端的に言えば、「私」は究極的には社会そのものとなりうるものであり、誰かが「バスチーユへ!」と叫べば、それをきっかけに社会の構成員が続々とバスチーユに集まり、革命が起こるのである。

ここに思想家としてのサルトルの基本的なコンセプト   先の思考実験での閉じたコミュニティーにおける特権的な思想家像   がある。

「私」=社会としての思想家であること。

率先して「バスチーユへ!」と叫び、社会を変革に導くこと。

それが全体的知識人サルトルの倫理にほかならない。


しかし、このような考え方はすぐさま構造主義者たちによって批判された。

批判の要点は、「私」と社会は違うし、それらは決して現象と現象の関係には還元されないということである。

ドゥルーズデリダは、このサルトル批判を徹底して突き詰めたのだといっていい。

彼らは、自身の発する言葉もまた<あらわれ>であることを強く意識していた。

そこで20世紀哲学のもうひとつの流れ、すなわち論理実証主義の流れを吸収し、現象と言語をひとつの地平に埋め込んだ。

それが言明である。

彼らは、すべてを言明に還元し、言明に還元されないものを、言明をもちいて言明において示した。

それがドゥルーズの「差異と反復」であり、デリダの「脱構築」である。

そこには、確固たる「私」も明確な社会の境界もない。

それらは言明に還元されない何かとして、ただネガティヴに示されるのみである。

ここで注意すべきは、こうした一連のサルトル批判において、すべてを<あらわれ>に還元するという考えそのものは捨てられていないことである。

つまりサルトルの哲学の基本的コンセプトはそのまま継承されているのであり、むしろこれらはサルトルの問いを徹底したものとみるべきである。


このサルトルの批判的発展を引き継いだのが柄谷行人である。

これまでにも幾度となく論じたように、柄谷の「自由であれ」「無限の未来に向かってアソシエーショニズムを実現せよ」という倫理=理念は、言明の地平にとどまれということを意味している。

それは同時に、言明に還元されないもの一切を、言明と言明のあいだの往還に封じ込めることである。

そこでは、「私」の選択の自由と「かくあるべし」という社会的「意味」が矛盾なく成立する。

これが、あの『存在と無』の最後に予告された倫理でなくて何であろうか。

こうしてサルトルによって先駆的に切り開かれた20世紀的思考は、その批判的継承者たちによって、すべてを言明の地平に還元することで完成されたのである。