2008-02-01から1ヶ月間の記事一覧

柄谷行人を読む(17)『マルクスその可能性の中心』

この現実が、まず使用価値に転化します。それはどのようにしてなされるのか。使用価値というものは、ある物質の「使用」ともうひとつの物質の「使用」を比べるところに生れます*1。たとえば、ただ鉛筆で字を書いている限り、それはどこまでも「使用」にすぎ…

柄谷行人を読む(16)『マルクスその可能性の中心』

最初に私は、本書と『意味という病』の間に「切断」はないと述べました。これからその理由を明らかにすることにしましょう。もう一度、『意味という病』の議論の構図を確認しておきます。それは「実存か社会か」という問いに対して、実存の問いも社会の問い…

柄谷行人を読む(15)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』終章 思考を強いているのは言語である。西洋形而上学において、論理学と存在論は切り離せない。言語における主語と述語を結ぶ「Be(存在)」の問題が、そのまま存在論に移行する。 同様に「貨幣の形而上学」は、関係を存…

柄谷行人を読む(14)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第5、6章 『資本論』は商品というテクストを「読んだ」。マルクスの思想に切断を見出す作業は恣意的である。マルクスの思想は、テクストの読解にある。一般に切断といわれるところで、マルクスはただ移動したのである。 …

柄谷行人を読む(13)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第2〜4章 2つの商品が等置されるとき、一方の商品の価値は、他方の使用価値で示される。このとき、相異なる使用価値から価値がうまれる。これが相対的価値形態と等価形態の結合である。 これが「拡大された価値形態」にお…

柄谷行人を読む(12)『マルクスその可能性の中心』

書物としての『マルクスその可能性の中心』には、表題作である「マルクスその可能性の中心」以外にも、「歴史について 武田泰淳」、「階級について 漱石試論I」、「文学について 漱石試論II」という日本文学に関する3つのエッセイが収められています。柄谷自…

柄谷行人を読む(11)『マルクスその可能性の中心』

今回は『マルクスその可能性の中心』をとりあげます。参照するのは1990年発行の講談社学術文庫版です。 本書は、いうまでもなく柄谷の代表作のひとつであり、一連の論稿群を読解する作業においてもひとつのメルクマールとなるものです。一方で、そのタイトル…

サイゴン・センタービルの向かいのフォー2000で昼食後、15時の便でニャチャンへ。出張とテト休暇を利用した日本滞在も終わり、久々の帰宅。

サイゴン・センタービルのカフェテリアで昼食。夕方、中央公園の一角にある砂場で子供を遊ばせる。夕食はクアン・アン・ゴン。

サイゴン到着。気温は31度。テト明けで、そこらじゅうに正月の飾りが残っている。宿泊はチャンセリー・サイゴン。

柄谷行人を読む(10)『意味という病』

このように考えると、柄谷が何を議論しているのかがはっきりするでしょう。まず、これまでとりあえず内面と外界という言葉でよばれてきたものは、正確に実存と社会に置き換えられなくてはなりません。そうすると『畏怖する人間』での柄谷は、私たちの生の本…

品川からのぞみで広島へ。

新宿駅へ。1時間前に着くも、場所を間違え、待ち合わせに遅れる。その後、秋葉原で一泊。

今日から休暇。かもめで長崎から博多へ。

(3)

最初に断っておくが、私はべつに東浩紀を批判しているわけではない。東は現在の日本において最も優れた批評家のひとりであって、私は掛け値なしにそう評価している。ただ、彼の考えと私のそれとの違いははっきりさせておきたい。 前回私は、東が想定する物語…

ソウルの国際ワクチン研究所から再三連絡が入る。自宅かと聞かれたので、病院だと答えると、ああニャチャンなのかといっている。先月から何度も帰国スケジュールを連絡し、数日前にも大阪にいるとメールしているのに、いかに向こうが私のことをいい加減に認…