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 最初に断っておくが、私はべつに東浩紀を批判しているわけではない。東は現在の日本において最も優れた批評家のひとりであって、私は掛け値なしにそう評価している。ただ、彼の考えと私のそれとの違いははっきりさせておきたい。

 前回私は、東が想定する物語なき「政治」もまた、結局のところ物語の相克としての政治に参加するしかないと述べた。その後の記事で、東は彼のいう物語としての政治を超えたところでの原理論の必要性を述べている。

ぼくは最近、学問って、べつにだれも説得しなくても、だれの役に立たなくてもいいのではないか、と思うようになってきました。そりゃ、象牙の塔に籠もって紀要論文ばっかり書いているのは論外ですが、しかしいきなり現場に役立つ理論をと言われたって、そんなのできるわけない、というか、できたとしても退屈なものに決まっているでしょう。

 現行の諸科学が現実性や有用性を追求するものだとすれば、ここで言われている「学問」とは、広義の哲学あるいは思想(この思想とは、私が前回述べた思想=科学=技術の一端をなすもののことではない)のことをさすと思われる。そうであれば、ひとまず私もこの見解に同意しよう。しかし続いて東はこう述べている。

著作権の未来についてだって、最終的にそれが現実に落ちなければいけないからこそ、むしろ余裕をもって抽象論ばかりする場があってもいいのではないか。所有の概念と複製技術の関係とか、労働の概念とオープンソースの関係とか、哲学的であると同時に現実的にもおもしろい問題がやまほどあるのに、そういう肝心なことを「議論」し「啓蒙」する機会がほとんどない。

 もちろん、言っていることはわかるのだが、私からすればこれらはどれも諸科学の議論であって、どこまでも思想=科学=技術のなかの問題にほかならない。確かに、所有なり労働なりといったものを抽象的に考えることは、現実の政治において直接的には有用でない。そしてそれらが有用でないからといって、はじめから否定されてはならない。しかしどんなに抽象的な原理論であろうと、それらは局所における思想=科学=技術に回収される。正確には、すでに回収されている。私が問題にしているのはその事実である。

 前回も述べたように、どんなに高度に抽象的な思想や理論も、結局のところは局所における思想=科学=技術の相克に参加するほかない。たとえ理論家自身には、それで誰かを説得するつもりなどなかったとしても、その理論は、具体的にノートに書きつけられたり、論文や著作として紙に印刷されたり、大学の研究室や学会のなかで誰かの話題にのぼったり、ウェブサイトに公開されたりする時点で、ひとつの局所の現実のなかに取り込まれている。もしこうした局所の現実に取り込まれていなければ、その思想は誰かの夢想の断片にすぎず、単に存在していない*1。つまり、いかに説得をめざさずに構築された高度な理論であっても、それが存在している時点で、すでに局所の現実をなしている。そしてそうである以上、その存在において物語の相克と無関係であることはできない。前回、私が「政治思想を支える高度な理論は、局所における説得の技術以上の意義をもたない」といったのはそういう意味である。

 もちろん私は、だから説得をめざし現実を考慮して思想を構築せよ、と言っているのではない。実際のところ、究極的にはそんなことは不可能である。私が言っているのは、ただ、その意図や内容にかかわらず、理論化の作業そのものを取り込んでしまう局所の現実があるという事実である。そしてこの局所はまさしく局所であって、すべてを覆い尽くすことはない。いまこうして休日に長崎市内の病院でパソコンに向かっている私を取り込んでいる局所があり、一方でこの文章をニャチャンにいるベトナム人の知人たちのみならず、日本国内の同僚たちの目にすら触れさせることなく、単に存在しないものにしてしまう局所がある。それらの境界をこれとして同定することは困難だが、しかし間違いなくそれらは現実として機能している。

 繰り返すが、私は東の考えもよくわかる。しかし私からみれば、彼が考えている哲学や思想というものは、たとえそれがどんなに原理的だろうと、思想=科学=技術の一環として局所の現実の一部をなすものにほかならない。もちろんそう考えている私も例外ではない。端的にいえば、この文章はパソコンがなければ、日本語が読めなければ存在しない。それがプリントアウトされ、他言語に翻訳されたとしても、そのプリントアウトや翻訳じたいが局所をなしている。そうである以上、私の考えもまた局所にあるといわなくてはならない。しかし、これは自己言及とか循環論とかいった、それこそ抽象的な議論とは関係がない。むしろ極めて素朴な事実である。そしてその意味で、私の局所の現実は、東のそれとは違っている。それはいいとかわるいとかいう問題ではなく、単に違うのである。とすれば、それはなぜ違っているのか。少なくとも現在の私にとって、哲学とはそれについて考えることである。

*1:もちろん、夢想もまたその「誰か」という局所に存在しているということもできる。いずれにせよ私が言っているのは、どんなに抽象的な考えも虚無の空間に突然出現するものではなく、現実、それも特定の現実なしにはありえないということだ。