前回、私は『東京から考える』を、解離的近代の2層構造論を脱構築的に正当化する書物であるとして読んだ。しかし、少し時間をおいて考え直してみると、次のような疑問がわいてくる。では東浩紀と北田暁大は、こうした意図があることを認めるだろうか、と。 …
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