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 前回、私は『東京から考える』を、解離的近代の2層構造論を脱構築的に正当化する書物であるとして読んだ。しかし、少し時間をおいて考え直してみると、次のような疑問がわいてくる。では東浩紀北田暁大は、こうした意図があることを認めるだろうか、と。

 おそらく、彼らはこういう読み方は無用な深読みだとして切り捨てるに違いない。彼らは、自分たちは20世紀的思想の文脈   一般的にイメージされるところの高度に抽象的な概念をもてあそぶだけのそれ   を超えて現実的に考えているのだから、いたずらに抽象的意図を読み込むべきではないと主張するだろう。少なくとも次のような記述を本心とみる限り、そう考えるのが妥当と思われる。

二人はいままで、どちらかというと仮想的なコミュニケーションの場(ネットやサブカルチャー)に目を注いできたが、本書ではむしろ、ともにリアルに生きてきた都市、東京について語ろうとしている。そして、その議論を通して、両者の思考の差異を浮かび上がらせ、さらには二人が共通した遺産として受け継いでいる1980年代的/現代思想的な言説の行方を考えてみようというのが、いささかアクロバティックな本書の目論見だ。
   p8 東の「まえがき」より

1980年代的なポストモダニズムの象徴、シミュラークル都市・渋谷の思い出から始まり、東急線沿線、六本木、足立区、池袋、下北沢、国道16号線を経て、リベラリズムの限界と可能性を論じて終わる本書の構成は、東京論という枠組みを超えて、現代思想の過去と現在、そして未来を考えるうえでも、何かの徴候になっているのではないか。少なくとも、そのように読んでくれる読者が多いことを、著者たちは願っている。
   p9 同上

 しかしそれでもなお、この対談における両者の発言の端々に、自身の「現実的」思考の理論的稚拙さを自覚しながら、それを発言そのものとは別の位相で正当化しようという意図が見え隠れすることを否定することはできない*1。結局、彼らの意図はどこにあるのだろうか。発言内容そのものにあるのだろうか、それとも明示されていない戦略にあるのだろうか。しかし、こうした詮索には意味がない。本当の意図など、彼ら自身にしかわからないし、もともと意図などなくとも事後的に捏造することも可能だからである。したがって、われわれにできることは、いずれの可能性も考えて読むことである*2

 そこであらためて考えてみよう。前回、私は本書における可能性としての脱構築的正当化の戦略を明らかにした。もし、この読み方が正しければ、本書は2層構造論を完成させる一方で、その理論の正当性は、理論そのものの整合性ではなく、読者による共感によってでしか保証されない。これはすでに示したとおりである。しかし、もしこうした読み方が正しくない、つまり本書が2層構造論の脱構築的正当化を目論む書でないとすれば、本書の議論をそのまま字義通りに理解する他ない。そのとき著者らは、戦略的な正当化というある意味では逃げ場所なしに、個別の発言の理論的正当性を問われることを覚悟する必要がある。

 以上を踏まえ、次回からは、前回とは異なるやり方で『東京から考える』を読みたい。すなわち、議論の戦略的正当化の可能性を完全に排除したうえで、特に両者が議論を対立させる最終章(第Ⅴ章)を再検討していく。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

*1:例として、東と北田が、文脈に応じて「リアル」と「イメージ」を使い分けながら、考察が一面的であれ正当であると主張するところや、最終章で両者が、相手の思想的立場は理解できるが、という断りのもとで対立を演ずるところをあげておこう。

*2:この意味では、このサイトhttp://d.hatena.ne.jp/eyck/20070319の指摘は全面的に妥当である。東と北田の現実に共感することが、そのまま彼らの議論を普遍的なものとして受容してしまうことに気づくとき、読者は、それが戦略なのか、それとも彼らが単に自らの現実がそのまま普遍性につながると信じているだけなのか迷うことになる。このとき、その意図の不明さゆえに、両者の議論に過剰な意味を見出すことは避けなくてはならない