innhatrang2006-07-30

 オフィスのGさんのバイクに乗せてもらって、買い物に行った。電気屋でテレビと浄水器を買う。家主に連絡を取ってもらったところ、今日はまだ内装作業中なので、家具を運び込むことはできないとのこと。仕方ないので、前金だけ払って、明日、搬送してもらうことにした。次に家具屋でベッドを購入。210万ドン。これも明日、搬送してもらう。冷蔵庫や洗濯機は、実際に、ひとりで生活してみてから買っても遅くはないだろう。
 Gさんにホテルまで送り届けてもらい、喫茶店でコーヒーを飲んでいると、雨が降ってきた。ベトナムに来てから初めての雨である。午後1時半まで雨をしのいで、ダム市場の近くの食堂に行く。昨日とは別の店で、麺を頼んだら、昨日と同じものが出てきた。ブンというらしい。店の親父が数の数え方を教えてくれた。しかし、ベトナムドンは桁が多いので、値段を正確に言えるようになるのは、はるか先のことだろう。
 ホテルのベッドに横になりながら、テレビを観る。ケーブルテレビが入っているのでチャンネルは多いが、残念ながらベトナム語タイ語や広東語やイタリア語はさっぱり理解できないので、たいして観たくもないが、CNNをつけていることが多い。延々と、イスラエルレバノン侵攻が報道されている。IDFがカナの街を爆撃し、ビルに避難していた住民数十人が死亡したという。小さな子供の遺体が運ばれている映像を観るのは、本当に耐えられない。イスラエル政府やIDFのスポークスマンは、ここから攻撃してきたヒズボラをターゲットとしたのであり、数日前から住民に避難を呼びかけてきたと説明している。CNNのキャスターやリポーターは、ジュネーブ条約違反であると批判している。一方、ベイルートでは、国連ビルに数千人の暴徒が押し寄せているようである。レポートとコメントと発表と絶叫の映像が、繰り返し流れている。
 いつから、ひとは感情を、言葉や行動に、正確に置き換えることができるようになったのだろうか。いまや、感情はそれら社会的なものを正当化するための道具に貶められてしまっている。正確には、社会的なものの副産物に成り下がっている。ただ社会的なものだけが世界を支配していて、その正当性を争う果てしのない争いだけが続いていく。しかし、それは果たして、言葉や行動の利用の仕方として適切なのだろうか。果たして、そのような言葉や行動に、何らかの有効性があるのだろうか。
 もちろん、IDFの一連の行動は、明白なジュネーブ条約違反であり、そのことを言わなくてはならない。たとえヒズボラを攻撃するためであったとしても、一切、正当化されるものではない、と言わなくてはならない。しかし、それは何のためなのか。なぜ、攻撃したものでも、攻撃されたものでもない私が、いまここニャチャンの片隅の小さなホテルのベッドに、下着一枚で寝そべりながら、その行為を責める必要があるのか。それを考えることなく、ただ言葉の正当性だけを振りかざしてみても、何も有効ではないだろう。
 私が問うているのは、私自身の言葉や行動の正当性のことではない。そんなことは、もはやどうでもよいことなのだ。私が問うているのは、子供たちの未来が失われたことへの深い悲しみが、私に言葉を利用させ、行動を利用させるかどうか、ということである。私に何が可能で、何が不可能かということであり、私が不可能なものを可能にしようとするかどうかである。それは正当性をめぐる議論からは程遠く、ただどこまでも私が私自身に向かって問い続ける問題なのである。