それから本である。現地から取り寄せることもできるが、費用がいくらかかるかわからないので、持っていけるだけ持っていく。夜、本棚を物色する。とりあえず、薄い本ということで、ジル・ドゥルーズの『消尽したもの』を手に取る。これを読むのは、実に10年ぶりだろうか。

 したがって可能なことを消尽するするには、4つの方法がある。

  • 物事の網羅的な系列を形成する、
  • 声の流れを枯渇させる、
  • 空間の潜在性を減衰させる、
  • イメージの力能を散逸させる。

消尽したもの、それは網羅的であり、枯渇したものであり、減衰したもの、そして散逸したものである。最後の2つの方法は言語Ⅲ、つまりイメージと空間の言語において結び合う。この言語はいわゆる言葉(ランガージュ)と関係を保つが、その穴、そのずれ、あるいはその沈黙において屹立し、緊張する。それはみずから沈黙において作動することもあれば、みずからを提示するべく録音した声を用いることもある。そしてそれ以上にこの言語は言葉(パロール)がイメージ、運動、歌、詩になるよう強いるのだ。

ジル・ドゥルーズ、サミュエル・ベケット『消尽したもの』宇野邦一高橋康也
p23

 ベケットの作品を論じたドゥルーズのエッセイ。ドゥルーズのいう消尽とは、可能性を尽くすことである。それは、ある系列における可能性を尽くすこと、諸系列の可能性を尽くすこと、潜在的なものを尽くすことである。そして、その消尽によって、直接的なイメージがあらわれると、ドゥルーズは述べる。ここで述べられているのは、経験論的に成立している諸系列の、①対象を規定するもの、②論理を規定するもの、そして③両者を潜在的に規定するものを除去し、表象そのものを抽出するプロセスである。本稿の論旨は、それ以上ではない。
 しかし、ドゥルーズのいう消尽というプロセスが、はたして哲学的にありえるだろうか。そして表象とは、本当に特別なものなのだろうか。ひとつの形式に特権性を与えることは、まったく恣意的ではないのか。形式化によって到達した形式を、はじめからそこにあったものとみなすこと、あるいは、形式化の過程など何もなかったかのように、形式の相互関係を描出することは、少なくとも哲学ではない。ドゥルーズのやり方は、哲学とテクストの読解とが同等でありえた、ひとつの哲学史において可能であったにすぎないのではないか。
 ニャチャンでは、ドゥルーズの本を読もうと思う。さしあたり、ドゥルーズがその形式化をもっとも徹底したであろう『差異と反復』を持って行くつもりである。しかし、正直なところ、憂鬱ではある。重いから持って行くのが大変だというだけではなく、なぜ、いまさら私がドゥルーズを読まなくてはならないのかという気持ちもあるからだ。そんな時間があれば、子供と一緒に遊んだり、他に仕事ができるのではないのか。それでも、時間がある限り、読んでみようと思うのは、ドゥルーズを利用することもまた、私には必要なことだと思われるからである。
消尽したもの