このところ、まとめて本を読む時間がない。別に読まなくてはいけないわけではないので、暇をみつけて、少しずつ読んでいく。今日は、p34-p39。

反復と一般性――概念の視点からする第3の区別
要約:
 表象=再現前化は、概念と対象の関係として、権利上、実現されうる。表象=再現前化が実現するとき、概念の内包が無限であることと、外延がただひとつであることとが相関する。このとき、主語と述語の関係が有効になる。表象=再現前化は、対象の記憶と、意識における自己意識のなかで、実現されうる。

概念の内包と「阻止」の現象
要約:
 概念の内包は現実的に無限であるが、その現実的な無限性は人為的に阻止されうる。人為的阻止は、概念を論理学的に使用するときにあらわれる。

「自然的阻止」の3つの事例と反復――名目的諸概念、自然の諸概念、自由の諸概念
要約:
 人為的阻止に対して、自然的阻止がある。自然的阻止において、反復が形成されている。自然的阻止は、名目的概念、自然の概念、自由の概念において、あらわれる。①名目的概念においては、概念の内包が有限であるにもかかわらず、ただひとつの外延が与えられる。このとき、離散的拡がりがあらわれる。②自然の概念においては、無際限な内包が、複数の同一的なものを対象とする。このような自然の概念の対象は、記憶を欠いている。③自由の概念において、自己意識を欠いた即自的意識は、自由であるまま、過去を反復する。

解題:
 ここでも、ドゥルーズのいう、概念、対象という言葉はあいまいである。まず、これらの用語を明確にしておきたい。ドゥルーズの言う概念とは、論理系を構成するものと、論理系を規定するものの両者を包括的に指しており、対象とは、対象系を構成するものと、対象系を規定するものの両者を包括的に指している。概念と対象は独立に捉えられ、対象には実在性が前提されている。そして、表象=再現前化とは、概念と対象の間に、経験的な関係が成立することである。

 これを踏まえて、順に議論を明らかにしていく。まず、概念の阻止である。これは、概念の内包が、概念以外の何かによって規定されることである。この規定を「阻止」と表現するところに、ドゥルーズが、表象=再現前化において、あくまでも概念が対象を規定するのであって、対象が概念を規定するとは認識していないことがわかる。確かに、ドゥルーズは、概念が対象を規定する際の限界を指摘している。しかし、それを概念の「阻止」であり、それが概念の限界である、と認識している限り、そこに、対象による概念の規定という視点は出てこない。

 ではなぜ、ドゥルーズは、表象=再現前化において、規定に関する、概念の対象に対する優位を前提としているのか。これについて、自然的阻止の議論からみてみる。ここでドゥルーズが、権利的にありうるものとしてあげる、自然的阻止の3つの例は、いずれも異なる形式を重ね合わせることで構成されたものである。すなわち、概念の形式、対象の形式、経験的なもの、そして実在性である。例えば、名目的概念における阻止は、ある言葉を概念として把握すること、ある言葉を対象として把握すること、そして言葉を実在性をもつ形式として把握すること、によって見出される。

 しかし、哲学的に、これら3つの把握が同時に成立するわけではない。それでも、これらを同時に成立するとみなすのであれば、それは単に恣意的である。つまり、言葉の意味を考えることと、言葉の使い方を考えることと、言葉そのものの実在性を考えることとを、同時にはできないし、そもそもそれらは作業としては相互に関係がない。これらを重ね合わせ、ひとつのものとしてそこにあるとみなせば、それは相互に性質の異なる形式が共存する、矛盾をはらんだ存在にみえるだろう。確かに、それをひとつのものとみなすことは経験的に可能である。しかし、そこに矛盾を見出すことは、レトリックとしてありえても、哲学的には根拠がない。

 他の2つの例も同様である。ある自然の概念の対象を、それを自然の対象であると把握することと、それを時間的、空間的に把握すること、そしてその対象の実在性を把握することとは関係がない。あるいは自由の概念に関して、行為そのものを把握することと、行為と意識の関係を把握すること、行為の実在性を把握することとは、形式的には関係がない。しかし、ドゥルーズはそれぞれを、権利的にありうるとして重ね合わせる。そして、それらが、経験的には実在性をもつにもかかわらず、形式的に矛盾しているから、その経験的存在には、概念と対象の間の表象=再現前化とは異なる、何らかの規定があると指摘するのである。それがつまり、ドゥルーズの言うところの「反復」である。

 もし、こうした諸形式の重ねあわせを、恣意的なものと自覚していないのであれば、ドゥルーズは、概念と対象を相互に独立した形式として捉え、表象=再現前化において、概念と対象の関係が、対象に含まれる実在性のうえに成立することを前提していることになる。さもなければ、概念と対象が形式的に矛盾する経験的存在を構成し、その存在を指摘することが、表象=再現前化とは別の規定があることを意味することにはならないだろう。このように、ドゥルーズにとって、対象とは実在性をもつものであり、表象=再現前化とは、どこまでも概念が実在性をもった対象を規定することである。つまり、規定に関する、概念の対象に対する優位は、対象に前提された実在性に基づいているのである。

 この前提は、自然的阻止と人為的阻止の区別において、いっそう明らかである。自然的阻止に反復を指摘する一方で、ドゥルーズは論理学を人為的阻止として、自然的阻止から区別し、そこには反復を指摘しない。補足しておけば、論理学とは、論理系と対象系の相互規定によって成立するものである。だからこそ、論理学は経験論的であり、現実的に交換可能なのである。ドゥルーズが論理学の成立に反復を見出さないのは、それが概念と対象が相互規定によるものであり、実在性をもつ経験的存在を必要としないと考えるからである。つまり、概念と対象が形式的に矛盾する経験的存在を構成することができないと考えているのである。

 これは、どういうことか。すなわち、経験的な記号の列において、概念の形式と対象の形式を矛盾させることは、「権利上」可能である。例えば、ある現実的な記号の列に、論理式と演算の対象としての数を同時に見出すことは可能である。したがって、そこには確かに、ドゥルーズの言うところの「阻止」がある。しかし、それらの記号は、経験的な存在でありうるとしても、論理学の内部においては実在性を要請していない。言い換えれば、論理学における対象は、実在性の前提から免れており、そのために「自然的」な対象ではなく、「人為的」な対象とみなされるのである。だから、ドゥルーズは論理学において、阻止は指摘しても、反復を見出さないのである。*1

 こうしてみると、ドゥルーズが、同じ表象=再現前化であるにもかかわらず、論理学を他から区別し、議論から退ける理由は明らかである。ドゥルーズにとっては、表象=再現前化において、対象に実在性が前提されていることが重要なのであり、実在性を前提しない対象をもつ論理学は、自然ではなく「人為的」なのである。そして、実在性を前提しない対象において見出されず、実在性を前提とした対象において見出されるところの反復とは、まさしく実在性そのものに関わる形式に他ならない。

 以上より、ドゥルーズは、概念と対象を独立して捉えており、概念が対象を規定するが、その逆はないこと、表象=再現前化において、概念と対象の関係が、対象に前提された実在性において成立することを前提している。そして、この実在性が、ドゥルーズの言うところの反復に関わっている。しかし、最大限に注意を払うべきは、ドゥルーズが、表象=再現前化および概念の阻止を、権利上ありうる問題設定であるとしている点である。これはドゥルーズが、表象=再現前化の議論を、哲学史的に相対化しうる視点を獲得していることを示している。いいかえれば、ある意図の下に、このような前提を受け入れた上で議論を展開している可能性がある。この点については、もう少し読みすすめる必要があるだろう。
差異と反復

*1:もちろん、その記号が、現実的な言語活動(ランガージュ)において把握されるなら、それは名目的概念と同様に、自然的阻止の例となりうるだろう。したがって、ドゥルーズの言う人為的阻止とは、あくまでも論理学という学問領域を言語活動から切り離した上で見出されるものである。なお、ここでいう経験的存在における形式的な矛盾とは、論理学的に定義される矛盾とは異なるものである。したがって、こうした議論を、例えば数学基礎論などと結びつけて論ずるのは見当違いである。