先週の会議でいそがしく、少々間があいてしまったが、引き続き、ジル・ドゥルーズ『差異と反復』を読んでいく。今日はp39-p44。


反復は概念の同一性によっては説明されず、否定的でしかない条件によっても説明されないということ
要約:
 表象=再現前化における自然的阻止の3つの例によって、概念の絶対的同一性を否定するものとしての反復が説明された。しかし、否定による説明だけではなく、反復そのものが定立的に捉えられなくてはならない。

「死の本能」の諸機能――差異との関係における、そしてひとつの定立的な原理を要請するものとしての、反復(自由の諸概念の例)
要約:
 フロイトの言う「死の本能」は、反復に定立的原理を与えうる。

解題:
 ここでドゥルーズは、自然的阻止の例によって反復を指摘することは、反復の否定的な説明でしかない、反復そのものを定立的に把握する必要性がある、と述べている。そして自由の概念における自然的阻止の例を検討している。その議論を追ってみよう。
 すでに、前回読んだ範囲で、意識と表象=再現前化の関係が述べられていた。

つまり意識は、表象=再現前化を、自由な能力である限りでの《私》に関係させるのであって、この自由な能力は、その所産のいずれにも閉じ込められてしまうことはなく、かえって、どの所産も、その能力にとっては、過去として、すなわち、内感において規定された変化の機会として、すでに思考され、再認されているのである。
『差異と反復』p38

 意識は、すでに経験論的に成立した表象=再現前化の関係を、そのまま経験的なものとして生きている。つまり意識は、表象=再現前化を相対化しつつ、表象=再現前化そのものとしてある。この意識の2重構造が、ドゥルーズの言う自由である*1

 では、自由の概念における自然的阻止とは何か。それは、表象=再現前化を相対化しつつ、それを生きているはずの意識が、反復行為においては、相対化なしに生きられてしまっているという事実において見出される。すなわち、本来的に意識は自由であるにもかかわらず、反復行為においては、その自由が阻止されているというのである。

 しかし、ここで取り上げられている反復行為は、異なる形式を重ね合わせることで構成された形式である。すなわち、行為というものを、経験論的に表象=再現前化において把握すること、経験的に把握すること、そしてその実在性を把握することとは、形式的には関係がない。しかし、ドゥルーズはこれらを重ね合わせ、ある行為は、経験論的に表象=再現前化においてあるが、ある特定の行為=反復行為は、経験論的に相対化されることなしに、行為として実在性をもつという。これにより意識の自由が、意識以外の何かによって規定されているというのである。

 このような複数の形式の重ね合わせが恣意的であり、そこで指摘される反復が、あらかじめ前提されている実在性と関係していることは、前回みたとおりである。しかし、今回読んでいる範囲で重要なことは、ドゥルーズが反復を指摘するだけではなく、反復そのものを定立的に捉えようとしていることである。そして、そのために、フロイトを利用していることである。

 フロイトは経験的な反復行為を、超経験的な形式としての*2「死の本能」によって説明する。ドゥルーズは、このフロイトの議論を肯定的に踏襲しながらも、反復行為は何かによって反復させられているのではなく、それそのものとして反復していると繰り返し述べている。

だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。
p41

私は、抑圧するがゆえに反復する、というのではない。私は、反復するがゆえに抑圧するのであり、私は、反復するがゆえに忘却するのである。
p43

反復によってわたしたちが病むとすれば、わたしたちの病を癒すのもまた反復である。
p44

 しかし、容易にわかるように、こうした記述は単なるレトリックにすぎない。本当に反復によって病み、反復によって癒されるのであれば、その反復という概念は、臨床的には無用である。すくなくとも、臨床的経験に基づくところのフロイトの議論とは関係ない。要するにドゥルーズは、これらの記述において、反復行為から反復そのものを形式的に抽出しているだけで、フロイトの議論を発展させるつもりは毛頭ないのである。では、なぜ執拗なまでにレトリックを弄しながら、フロイトの議論をなぞってみせる必要があるのか。それは、それによって反復に定立的な説明を与えるためである。

 どういうことか。概念の自然的阻止の例において、表象=再現前化の限界として、否定的に指摘されるだけであった反復に、定立的な原理を与えなくてはならない。それには、表象=再現前化とは異なる形式であり、かつ、経験的に可能なものが必要である。そのために、フロイトの「死の本能」を利用するのだが、「死の本能」そのものは、経験的には不可能である。そこで、反復行為を強いている「死の本能」ではなく、哲学史的な観念としての「かつてフロイトが指摘した死の本能という観念」を利用するのである。

死の本能という観念は、明らかに、つぎのような3つの相補的な逆説的諸要請に即して理解するべきである。反復に、ひとつの定立的な根源的原理を与えること、しかも反復に、偽装のひとつの自律的な力=累乗(ピュイサンス)を与えること、最後に、反復に、恐怖が選別と自由との運動に徹底的に混じり合っているという内在的な意味を与えること。
p44

 この記述が成立するのは、「かつてフロイトが死の本能を指摘した」という哲学史的事実があり、そして、この記述に先立って「死の本能」の意味が形式化されているからである。それなしに、この記述は意味をなさない。つまりドゥルーズは、フロイトの議論を、その議論そのものが無意味になるところまで形式化しておきながら、記述において肯定的に反復することで、そこに哲学史的な実体を構成し、それを反復の定立に利用するのである。言い換えれば、ドゥルーズが構成する「かつてフロイトが指摘した死の本能という観念」という哲学史的実体が、ドゥルーズの指摘する反復を規定するのである。しかし、もちろん、この哲学史的実体なるものは、哲学的な形式ではない。あくまでも、記述された哲学史的テクストにおいて、成立が想定される「実体」である。

 このように、フロイトの概念としての「死の本能」は、すでに哲学史的に回収されている。そして、ドゥルーズが構成した「かつてフロイトが指摘した死の本能という観念」が、やはりドゥルーズ自身が指摘する反復のうちに回収されるとき、ドゥルーズによるフロイト哲学史的利用が完成するだろう。しかし、その完成は、どこまでも記述の中、つまりは『差異と反復』という本の中においてでしかない。
差異と反復

*1:言うまでもなく、ここではサルトルの即自かつ対自、そして自由の概念が踏襲されている。ただ、当初の方針通り、これ以上の哲学史的解釈は行わないでおく。

*2:厳密に哲学的な意味において、この「死の本能」の概念においては、現象学的形式と経験論的形式とが漠然と融合している。その意味で、超経験的と記述するのが適切だろう。