結局、序論を読み終わる前に一時帰国となってしまった。まる一冊持って帰るのも重いので、カンホア県衛生局の向かいのコピー屋でp50-61までをコピーして持ってきた。A4サイズ6枚で3,000VSD。しかし、帰国してからも忙しく、今日まで読む暇なし。


反復における裸のものと着衣のもの
要約:
 反復とは、概念なき差異である。反復には、裸の反復と、着衣の反復がある。裸の反復は、同じ概念のもとで表象=再現前化された対象の反復であり、着衣の反復は、《理念(イデア)》における反復である。裸の反復は、着衣の反復の帰結である。差異と反復の不適合によって、一般性が生まれる。


解題:
 序論も終盤になり、ここまで慎重に進められてきた議論が、一気に大胆に展開されている。哲学史的記述が減った分だけ、哲学的に興味深いところは多いが、いくつか問題もある。

 まず、述語を整理しよう。今回の範囲で、反復とは概念なき差異である、と明確に定義される。ドゥルーズのいうところの、概念と対象の関係においては、概念が対象を規定するが、対象が概念を規定することはない。そして、対象には実在性が前提されている。概念なき差異とは、概念による規定の結果として、対象において見出される差異ではなく、対象そのものにおいて生み出される差異を意味している。この対象そのものにおける差異を生み出すものが、反復である。

 一方、前回の範囲で、2つの反復が区別されていた。すなわち、諸系=信号において、諸系=信号そのものを規定するものとしての反復と、ある特定の系を規定するものとしての反復である。今回、前者は裸の反復、後者は着衣の反復と呼ばれることになる。裸の反復も着衣の反復も、いずれも反復である以上、概念による規定なしに、対象そのものにおいて差異を生み出すものであることに変わりはない。ただ、両者は、特定の系あるいは諸系という視点において区別される。すでに指摘したように、特定の系あるいは諸系という視点は、系において経験論的形式と経験的なものを区別しないことによってうまれる。整理するなら、概念なき差異としての反復とは、系を概念と対象の関係において把握する際の定義であり、裸の反復と着衣の反復は、系を経験論的かつ経験的な領域において把握する際の区別である。

 もうひとつ重要となる概念が、《理念(イデア)》である。結論から言えば、《理念(イデア)》とは、経験論的形式としての系を規定するものの地平である。繰り返しだが、『差異と反復』において、経験論的形式と経験的なものは区別されていない。したがって、系とはどこまでも、ある特定の系ないしその総体としての諸系=信号であって、そこに経験論的形式としての系というものはない。しかし、すでに指摘したように、ドゥルーズは経験論的形式と経験的なものを区別していないが、相互の形式的関係については自覚的である。よって、経験論的かつ経験的な領域に対して、経験論的形式と経験的なものの形式的関係の領域が見出される。この経験論的形式と経験的なものの形式的関係とは、経験的なものの形式化によって経験論的形式に到達し、経験論的形式が経験的なものを規定するという関係のことであり、その関係の領域とは、経験論的形式を規定する地平のことである。それでは、経験論的形式を規定する地平とは何か。経験論的な系は、思考(論理学的には推論)および対象系によって規定される論理系と、操作(論理学的には演算)および現象学的形式の地平によって規定される対象系からなる。よって、経験論的形式を規定する地平とは、①論理系と対象系の相互規定、および、②思考と現象学的形式の地平、からなる地平である。これが《理念(イデア)》である。

 以上を踏まえて、これら裸の反復、着衣の反復および《理念(イデア)》の相互関係を明らかにしよう。ドゥルーズによれば、裸の反復と着衣の反復は、相互に独立しているのではなく、対等でもない。着衣の反復が裸の反復をなすのであり、裸の反復は着衣の反復の結果である。すなわち、ある特定の系を規定する反復が、諸系=信号を規定する反復をなすことがあっても、その逆はない。そして、着衣の反復は《理念》においてある。

それら2つの反復(裸の反復と着衣の反復:引用者補足)は、相互に独立しているものではない。後者は、前者の特異な主体、心胸、内面であり、前者の奥ゆきである。この前者はと言うなら、それは、外皮にすぎず、抽象的な結果にすぎない。
『差異と反復』p51

後者の反復は、差異を含む反復であり、しかも《理念(イデア)》の他性において、また或る「間接的呈示」の異質性において、おのれ自身を含む反復である。前者は、概念における欠如による、否定的な反復であり、後者は、《理念(イデア)》における過剰による、肯定的な反復である。
p50

 すなわち、着衣の反復は、経験論的かつ経験的な領域において、ある特定の系を規定するものでありながら、系の経験論的な規定に関わる。そして、それは同時に、経験論的形式としての系を規定する《理念(イデア)》の地平にある。したがって、経験論的形式を規定するものの地平(《理念(イデア)》)において、ある特定の経験論的規定(着衣の反復)があり、それが、特定の系を規定し(着衣の反復)、諸系を規定する(裸の反復)ことによって、経験論的かつ経験的な領域(一般的なもの)が成立することになる。つまり、《理念(イデア)》から反復を介して、一般的なものが生み出されるのである。

 しかし、今回の範囲におけるドゥルーズの記述には、いくつか問題がある。まず、延々と裸の反復と着衣の反復の特性が対比的に記され、着衣の反復が《理念(イデア)》においてあることが記されているが、何の議論も例証なく、ただ結論だけが繰り返し述べられているので、なぜそんなことがいえるのかが不明である。特に次のような記述は、少なくともこれまでの議論から導かれたものではなく、単なる憶測としか言えない。

なぜなら、内的な反復が、おのれを覆ってしまう裸の反復を貫いて、おのれを投射するかぎり、内的な反復が含む諸差異は、どれもこれも内的な反復に対立するファクターとして現われ、それらファクターは、内的な反復を緩和し、「一般的な」諸法則に即して内的な反復を変化させてしまうからである。
p53

反復が、今度は外的で裸の反復として現われ、諸事物が、それ自体、一般性の諸カテゴリーに服従したものとして現われるのは、まさに何ものかが、その何ものかのレベルとは別のレベルにある反復に関係づけられるかぎりにおいてである。差異と反復とが不適合になるときにこそ、一般的なもののレヴェルが創設されるのだ。
p54

 そして、その内容にも問題がある。ここで引用した部分において、着衣の反復が裸の反復となる過程、そしてそれが一般性をなす過程が述べられている。しかし、《理念(イデア)》から着衣の反復がうまれ、それがあたかも能動的に裸の反復となり、一般的なものを形成するかのような記述は、冒頭で掲げられた反ヘーゲル主義から程遠いものではないのか。むしろ、ヘーゲルの哲学が回収しそこなったもの(差異と反復)を指摘しながら、それを改めて一般性に回収してみせることで、その哲学を積極的に支持しているのではないか。

 もちろん、まだ序論であるから、それが『差異と反復』を貫く問題であると結論するわけにはいかない。続けて読んでいく。
差異と反復