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 先日、萱野稔人の国家論において、国境という概念が十分に理論化されていないことを指摘した(「国家・国境・領土」について)。実際、萱野の理論では、国家の構成員が移動しても国境がなくならないことの理由を説明することはできない。いっけん、高度な整合性を保っているかに見えるその議論において、なぜこのような事態が生ずるのだろうか。それを考えるにあたって、萱野の最新エントリー(「交差する領域〜<政事>の思考〜」第6回 価値判断と認識)は参考になる。

 このエントリーで萱野は、自らの国家論に対する価値判断の欠如という批判に応えて、社会の分析に際しては認識と価値判断を区別し、まずは価値判断を括弧に入れて分析理論を構築すべきであるとしている。

もちろん私は、思想や理論のなかで価値判断をしてはいけない、と言いたいのではない。しかし、認識と価値判断のどちらが先行しなくてはならないのか、といえば、間違いなく認識のほうだ。「・・・・とはなにか」「・・・・はなぜそうなっているのか」ということがわからなければ、それがどうあるべきか、いいのか悪いのか、ということを議論することはできない。
(中略)
「いい・悪い」とか「なにをなすべきか」を明示しなければ何かを論じたことにはならない、というような空気がいまの思想界には蔓延している。私の議論もときどき、どうすべきかが書かれていないというような批判をうける。しかしそういう批判をする連中がどこまで問題を認識しているのかは、また別の話だ。早急に価値判断をもとめることは、認識をさまたげてしまう。逆にいえば、認識し理論化していく力のない連中ほど、価値判断に逃げるのだ。

 そして最後にスピノザ『国家論』の一部を引用し、自らの態度をスピノザになぞらえている。しかし、これはあまり適切な引用とはいえないだろう。なぜなら、確かにスピノザの国家論は、価値判断を括弧に入れて社会を理論化するが、最終的には普遍的な価値判断、あるいは理想(あるべき国家像、政治と宗教との望ましい関係)を示すものだからである。最後まで価値判断を括弧に入れたままの、萱野の国家論と重ね合わせることには無理がある。

 むしろ私にとってこのエントリーは、17世紀のオランダ人のそれよりも、日本の萱野と同世代の論者による、次のような記述と並べるのが適当であるように思われる。

しかし、ではどうすればいいんだ、と一般化したかたちで尋ねられてもなんとも答えがたい。それに僕としては、「疎外」みたいな強力なキーワードが見つかれば別ですが、そうでないかぎり、別に革命的な理論を打ち出したりする気はない。現代思想の改良を不断に続けることで、状況に対応する言葉を少しずつ作り出し、他方では凡庸な実践を積み重ねていく。それだけです。
   東浩紀大澤真幸自由を考える』p247、東の発言より
自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

しかし読者のなかには「で、お前は現在をどう考えるのか?」と問わずにはいられない人もいるかと思う。そうした問いに十分な回答を与えられるとは思わないが、最後に、本書の議論を別の角度から捉えなおしつつ、「情況」に向けられたいくつかの診断を検討し、「情況への処方箋」を提示することの困難を確認しておくこととしたい。
   北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』p237
嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

「いかにあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。
   鈴木謙介カーニヴァル化する社会』p168
カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

 このように、価値判断を括弧に入れて社会を理論化し、それをそのまま提示するという態度は、なにも萱野に限ったものではなく、われわれの同世代の論者に共通してみられる傾向である。彼らは、自分が提示する理論に価値判断が欠けていることを自覚しており、それを不満に思う読者を想定しながら、各々の言葉で正当化する。しかし彼らは、決して価値判断そのものが不要であると考えているのではない。むしろ理論から価値判断を導きたいにもかかわらず、それができないのである。実は、ここにはわれわれが直面している、現実と理想の関係における変化がある。

 古典的な共同体の内部で、共同体および人間の理想を語るには、現実を理論的に再構築するだけで十分である。そこでは現実を理論化する作業が、そのまま現実をそのように作り直す道筋となりうる。しかし、古典的な共同体が解体され、現実社会そのものが相対的で形式的なものになると、理論化の作業は結果的に現実をなぞることになる。すなわち、形式的な共同体においては、理論化の精度が高くなればなるだけ、現在の現実をそのまま記述するだけの作業となるのだ。

 スピノザと萱野の国家論の相違もここにある。もとより国家論とは、まったく抽象的な理論的考察から国家を導き出すのではなく、現に成立している国家を理論的に説明する作業である。そして、理論的に整合性の高い国家形態をもって、普遍的に望ましいものであるという価値判断を導く。

 もし、現実の国家が形式的なものから遠ければ、理論的に再構成された国家はそのまま理想の国家となる。しかし、国家そのものが形式的なものとなるなかでは、理論的に再構成された国家は、単に現実の国家を再現するに過ぎない。だから、スピノザの時代とは異なる現在、萱野が理論的に国家を説明すればするだけ、それは現状の追認になるだけで、普遍的な価値判断からは遠くなるのだ。例えば、国家の構成員が移動しても国境はなくならないことを、いかに理論的に説明しても、それは今のところはなくなっていないという事実を言い換えているに過ぎず、明日、突然国境がなくなる可能性を否定することはできない。そして、国境があることについても、ないことについても、一概によいとも悪いとも言うことはできないのである。

 このように、萱野の国家論が価値判断を導かないのは、決して萱野の議論が不十分、あるいは未完結だからではない。その背景には、現実と理想の関係そのものの変化がある。もはや、普遍的な価値判断を導くために理論化することの必然性そのものが、疑われなくてはならないのだ。

 では、こうした価値判断を導かない理論に、なにか意義はあるだろうか。確かにそこから、古典的共同体における普遍的な価値判断(「このような国家がよい」)を導くことはできない。しかし、共同体の解体によって再構成された、形式的な共同体において、その理論は、個々の状況に応じた個別の価値判断の根拠として利用することが可能である。

 その意味では、萱野はすでにその個別の価値判断を実践しているのである。今回のエントリーを読み直せば明らかなように、萱野は、形式的な共同体における理想の国家論(「価値判断を括弧に入れて国家を論ずるのがよい」)という、ひとつの明確な価値判断を下している。その根拠が、自身の国家論の整合性にあることは間違いない。それは確かに、国家そのもののあり方を問うものではないが、そのような価値判断が一定の意義をもつ形式的な共同体があるということも事実なのである。