私は今後、医学基礎論研究と称する一連の考察により、医学基礎論の確立を試みたいと思う。この試みは、明確にひとつの目的をもっている。それは医学を、臨床医学基礎医学社会医学などの領域の相違を問わず、一貫して基礎付けることが可能な体系を構築することである。現時点において、その体系が具体的にどのようなものになるかはわからない。ただ、それが構築可能であることは間違いないものとして、私の確信となっている。

 これから展開される一連の考察は、しかし、この体系そのものを記述するものではない。基本的なことを確認しておけば、体系そのものを示すことと、体系を構築することとは異なる作業である。家屋の建築を例にしてみよう。体系そのものを示すこととは、いわば完成した家屋の中に入り、設計図と照らし合わせながら、その建材のひとつひとつの材質や働きを確認する作業である。このとき、そこに立ち会うものは、自分の経験を動員しながら、その建築過程がどのようなものであったのかを想像することはできる。しかし、そこには、実際に建材を組み立てた作業員はいないのであり、完成後にどのように想像を働かせても、作業員が遭遇した建築現場の困難は知りえないのである。私がこれから始めようとしているのは体系の構築であって、まさしく作業員として、建築現場で家屋の建築作業を行うことに他ならない。

 ここで私がいっているのは、構築の過程のほうが、体系そのものよりも重要であるということではない。当たり前のことだが、体系とは単に成立すればよいというものではなく、それ自身として機能しなければ何も意味がないものである。その意味に限って言えば、構築の過程はあくまでも副次的なものに過ぎない。ただ、体系に到達した経過など何もなかったかのように、はじめから体系そのものを示すことは、その体系が高度に洗練されているほど、経験的なものから程遠くなり、一般的には理解に困難を要し、結果としては十分に機能しないということにもなりえる。実際、こうしたことはよくあることで、それを避けるために、普通は体系化の完成後に体系化の過程を再現する作業がなされる。しかし、こうして再現された過程は、いわば都合よく加工された記憶に過ぎず、実際の逡巡からは程遠いので、体系の理解に役立つことはめったにないのである。

 よって私は、まだ現在の、体系の完成に確信を抱きつつも、まだ構築に着手していない状態から、体系化の過程を記していこうと思う。先の建築現場のたとえでいえば、まだ家屋の設計図すらない状態からはじめるのである。したがって、いくつかのアイディアはあるとはいえ、その考察の対象も、記述形式についても、前もってなにも決めてはいない。ときに具体的な問題を扱うこともあれば、まったく抽象的な議論を展開することもあるだろう。まとまった論考のこともあれば、断片的なアイディアのまま記録することもあるだろう。同じ内容を繰り返し論ずることもあれば、今日記した内容を、翌日に覆すこともあるだろう。そしてなにより、この作業がいつ終わり、体系が完成するのかは未知である。しかし、こうした不完全さを許容することで、つまり私自身の逡巡を私自身が受け入れることで、やがて確立されるはずの医学基礎論の可能性をひろげることができるものと、現時点では信じている。