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 本書は東浩紀北田暁大の対談である。そして、いっけん同世代同士の気楽なおしゃべりにみえて、実は最初から最後までひとつの理論だけが機能しているという、奇妙な対談である。

 本書を貫いているのは、近年、東が提唱している「解離的近代の2層構造論」である。これは現代社会を人間的原理と動物的原理に分けて説明するものとされる。

 人間を説明するうえで、動物的レベルと人間的レベルをきっちりと分け、別々の原理で説明すること。そしてたがいの越権を許さないこと(たとえば、恋愛のディスクールゲーム理論で説明しようとするような乱暴さを、そして逆に流行の推移に過剰な物語を付け加えるような深読みを許さないこと)。それは別に非科学的な態度ではない。物理学者は物理学の、生物学者は生物学の原理でそれぞれの対象を分析しているのであって、いたずらにその両者を統合しようとはしない。僕の提案は、人文科学や社会科学においても、それと同じレベル分けを導入しようというものだ。
   hirokiazuma.com 「解離的近代の二層構造論」

 東自身が、上部構造(人間的レベル)/下部構造(動物的レベル)という言葉で対比しているように、この2層構造論は史的唯物論を想起させる。ただしマルクス主義では下部構造が上部構造を規定するが、2層構造論においては、両者は対等な相互規定関係にあるものとして捉えられている。

 さて、この対談に先立って、東と北田は、同じように東京周辺で生まれ育ったものとして、直観と経験に基づいて語ることを約束したという。本書の大半は、この両者の直観と経験の微妙な相違を、2層構造論に還元する作業に費やされている。作業は、最終的に次のように総括される。

 さて、といったところで、広告都市、広告郊外から出発して、都内の東西格差、国道16号線的リアリティなどを経由して、とりあえずはここまでの4章で、「物理的都市としての東京は全体としては今後ますます都心内郊外化=ジャスコ化し、家賃の傾斜しかない状況になり、そのなかにときおり職能や趣味の街が点在するくらいでしかなくなる、都市のダイナミズムはますますヴァーチャル化し、セキュリティの論理で覆われた表面からはそれは不可視になっていく」といった結論に到達したのではないかと思います。
   p232 東の発言より

 これは要するに、東京の現実が、自身の提唱する2層構造論に還元されたという宣言である。経験と直観に基づいて考えれば、セキュリティの論理に基づく均一なインフラとヴァーチャルなコミュニティの対立がみいだされる、確かに動物的原理と人間的原理の対立は現実化しているのだ、と。こうして、2層構造論を現実化する作業が終わった後に、最終章で東と北田は対立を演じてみせる。

 僕がこの連続対談で東京を素材として言いたかったことは、人間は主体である前に動物であり、そしてその動物性がいまや、都市デザインを含め、社会システムの根幹を直接に決めはじめているということです。20世紀の思想家たちは、主体の脱構築、社会の脱構築をえんえんとやってきた。ところがその結果、いまや脱構築不可能な、生物学的身体としての人間だけがナマでごろんと転がっている、という感じがする。そして、その事実性を前にすると、思想家たちは驚くほど言う言葉がない。
   p264 東の発言より

 私は「人間工学が社会に因果的に影響を与える」ことは否定しないが、意味的に両者は独立したものだと考えている。(中略)人間工学そのものが社会を規定するのではなく、社会の側が「人間工学は重要である」と意味づけするからこそ、人間工学は他の社会設計の論理に優越するものとして認識されていく。言い方を変えれば、人間工学についての共同幻想が社会を動かす、といってもよい。
   p288-299 北田の「あとがき」より

 東は動物的原理を規定する生殖は脱構築不可能であるとし、この生殖に基づいて、一方でナショナリズムが復活する恐れがあるが、一方では連帯の可能性があると語る*1。これに対して、北田は動物的原理の存在を認めつつも、人間的原理によって動物的原理を変革する可能性を語っている。

 しかし、ここで演じられている対立は、初めから東自身によって準備されたものにすぎない。そもそも、2層構造論においては、人間的原理と動物的原理は相互に規定するものとして設定されている。そして人間的原理を強調するか、動物的原理を強調するかは、人間的原理と動物的原理の間の対立ではなく、人間的原理の内部における対立である*2。要するに、この対立ははじめから脱構築可能である。そして実際に対談は、対立を演ずる東自身によって、正しく脱構築されて終わる。

 ロールズ的なラディカルな原理主義かローティ的な小さな共感可能性か、再帰性か動物性か、権利か事実かという選択は、今後、私たちの社会のさまざまな場面で問われていくでしょう。そして、同じ年に同じ都市圏で生まれ、同じような教育を受けてきた僕たちが、いまそれと並行するような立場の違いを確認したことには、やはりそれなりの時代的な意味があると思います。
   p280 東の発言より

 このように両者の対立を相対化する地平(同年代、同じ出身地域、同じ教育)があり、両者はそれに自覚的である。しかもその地平は、最初にまさに東と北田自身によって、2層構造論の立ち上がる現実的背景として設定されたものである。よって両者の対立は、決して絶対的ではなく、ひとつの現実的背景から生み出される立場の相違でしかない。

 要するにこの対談は、経験と直観に基づいて語るという宣言のもと、「東京」(という名前でカテゴライズされた両者が共有する現実)を還元することで2層構造論に現実性を与え、さらに2層構造の対立を脱構築する地平もまた「東京」であることを示すことで、2層構造論を不可避の現実として完成させようとする試みである。そしてそれは、彼らにとっては成功している。

 しかし、こうして成立する2層構造論は、その「東京」という名前でカテゴライズされた東と北田の経験と直観に拘束される。よってこの理論は、原理的に「東京」を超えることはない。それでもそれが「東京」を超える可能性があるとすれば、読者が東と北田に対して「他者の生の具体的な細部との想像的同一化*3」を試みるときだけである。むろんこれも両者には自覚されているはずだ。つまり彼らは「東京」の外に向かって、彼らの生に共感することを求めているのである。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

*1:確認しておくなら、ここで脱構築というのは、初期デリダにおける現象学的な、あるいは言語論的な脱構築のことではない。つまり形式的体系の規定性に付きまとう形式化不可能なものを示しだす作業を経験論的領域に拡張したところの、諸形式をつねに相対化する地平に差し戻し続ける作業のことである。実際にこうした拡張はデリダ自身によってなされたわけであるが、しかし、「〜は脱構築不可能である=〜は相対化する地平である」という言明は、「対立を解消する〜という形式がある」という言明に置き換えられる可能性がある。これではヘーゲル弁証法となにも変わらない。もちろん、デリダ研究者として批評家としての経歴をはじめた東は、十分にそのことを意識しているのだろう。だからこそ、自身の発言を最後に「脱構築」してみせるのである。

*2:人間的原理と動物的原理を比較したうえで、動物的原理を強調するという行為そのものは、動物的原理ではない。

*3:対談中、東が自らの立場に近いとして引用するリチャード・ローティの言葉より。