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 再び、萱野稔人をとりあげよう。以前も指摘したが、「交差する領域〜<政事>の思考〜」における萱野の一連の議論には、いくつかの原理的な問題がある。それは次の3つにまとめることができる。すなわち、1.暴力の独占と国境の関係が明らかでないこと、2.独占されるところの暴力の概念が明らかでないこと、3.原理から客観的解釈を導くことができないこと、である。以下、そのひとつひとつについて検討したい。


1.暴力の独占と国境の関係が明らかではない

 萱野はマックス・ウェーバーを引用して、国家を暴力の合法的独占として定義する。しかし、これだけでは、国家が国民の暴力を独占するのか、それとも国民の暴力の独占の結果として国家が形成されるのかが不明である。言い換えれば、暴力の独占の主体が国家なのか国民なのかが定かでない。私の理解では、萱野の議論においては、暴力の合法的独占の成立によって、国家と国民は同時に定義される。つまり暴力の独占の主体は、国家/国民の2重体である。したがって、国家/国民を、ある国家、ある国民として特定するものは、暴力の独占そのものが認識の対象たりえない以上*1、それが他の国家と国民ではないという相対的な関係でしかない。すると、そもそもなぜ国境があるのかという疑問が生ずる。これに関して萱野は、国境は暴力独占の範囲を決定しており、グローバリゼーションにおいても国境はなくならないと述べている。しかし、なぜ暴力の独占の範囲が決定されなくてはならないのか、なぜ地球上に単一国家ではなく諸国家がなくてはならないのかを、暴力の合法的独占のみで原理的に説明することはできない(「国家・国境・領土」について)。


2.独占されるところの暴力の概念が明らかではない

 そもそも暴力の独占というとき、独占されるところの暴力とは何であるのか。1.が独占の主体の問題とすれば、これは独占の対象の問題である。まず暴力の独占によって成立する国家が、現実的な国家組織なのか、それとも領域内に偏在する権力なのかを考えよう。これに関して萱野は民間軍事企業を例に、合法的暴力の権限と業務を切り離し、業務は民間に外部委託することが可能であると述べている。国家が偏在する権力のことであれば、それは組織ではないから、国営と民間という区別すら不可能であり、外部委託も成立しない。したがって、萱野のこの議論に従う限り、合法的暴力を行使するのは国家組織である。では萱野の言うように、暴力を独占する国家組織が、暴力の行使を権限と業務に切り分け、自らは前者を保持し、後者を民間に委託するとする。このとき業務としての暴力=現実的な暴力そのものから切り離された、権限としての暴力=抽象的な暴力を、現実的な国家組織は保持することになる。しかも、萱野によればこれによって国家組織の権限は強化されるという。現実的暴力を切り離してなお強化される、抽象的な「暴力」の独占。そこで独占されているものを、現実的暴力と同様に暴力という言葉でひとくくりにすることは、哲学的な厳密さという意味で適切だろうか。あるいは、そうすることによって、暴力という言葉を状況に応じて都合よく使い分けられるようにしていないか。


3. 原理から現実の客観的解釈を導くことができない

 萱野もとりあげている、米国のイラク駐留軍を例にとろう。この場合、駐留米軍は、どの国家の暴力独占として機能しているのか。イラクか、それとも派遣元の米国か。もし現在、米国とイラクが戦争状態であるとすれば、米軍は米国の、イラク軍はイラクのそれぞれ合法的暴力の行使として、戦闘が展開されているということになる。もし、イラクが被占領国家であり、米軍がイラクの治安維持活動をしているのだとすれば、暴力独占は統一されていることになり、両国はひとつの国家、あるいはイラクは米国の一部である。もし、イラクの内戦に米国が軍事介入している(あるいは米国の軍事介入によってイラクに内戦が生じている)のだとすれば、イラクにおける暴力独占をめぐる抗争に米国の合法的暴力が加わっていることになる。確かにいずれの場合も、暴力の独占によって説明することはできる。では、そのどれが正解なのか。その解答を暴力独占の原理から演繹的に導くことはできない。それは、現状の情勢分析によって判断するほかないのである。つまり、暴力の独占は、事態を事後的に言い換えることはできるが、事態の判断に先立っては何も機能しない。


 以上のように、萱野の一連の議論には、繰り返される「国家とは暴力の合法的独占である」というテーゼ以外にも、少なくとも「暴力の独占と国境は独立に成立する」、「暴力の独占そのものを統括する何かがある」という前提がある。にもかかわらず萱野は、これらを強引にひとつのテーゼに還元してしまおうとしているようにみえる。私はここに根本的な問題があると思う。

 もとよりここで展開されている国家論は、すでに成立している近代的国家を分析したものであって、普遍的原理から現実国家の必然性を導くものではない。もし普遍的原理から必然的に国家が導かれるのなら、ヒトの誕生とともに国家は成立していなくてはならない。これでは近代も近代以前もないことになってしまうだろう。つまりあくまでも現状からはじめる限り、無理に一元的な原理に還元するよりも、説明のツールとしてのテーゼを網羅するほうが、より機能的だということである。「国家とは暴力の合法的独占である」ではなく「(近代)国家が成立するところに暴力の独占が見出される」と言い換えたほうがよいのではないか。

*1:この暴力独占、あの暴力独占として特定できないということ。