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4.形式的唯物論の完成
4.4.形式的唯物論とは何か(3)


 形式的唯物論は、現実を実在性=物質的形式の地平に還元する。この実在性=物質的形式の地平は、実在としての物自体ではないから、それそのものとして言及されることはないし、それそのものに何かが還元されるわけでもない。だから現実の還元は、実在性=物質的形式の地平ではなく、主観的地平の形式(主観的形式)と社会的地平の形式(社会的形式)の相互規定に還元される。そしてこの言及されえない実在性=物質的形式の地平を介して記述の視点を移動させることで、主観的形式と社会的形式の相互規定を見出すこと、これによって現実を批評することが、柄谷の言うトランスクリティークである。トランスクリティークとは、形式的唯物論のことに他ならない。*1

 この形式的唯物論の基本構造は、マルクス唯物論のそれを踏襲している。すべてを物質=物自体の運動に還元するマルクス唯物論に対して、形式的唯物論は、それらを実在性=物質的形式の地平に統括される主観的形式と社会的形式の相互規定に還元する。これは現実を、物質=物自体ではなく、形式化された物質=物自体としての実在性=物質的形式に還元し、運動を形式の相互関係に還元するものであり、まさに形式化された弁証法唯物論である。

 一方で形式的唯物論は、20世紀的思想の系譜も踏襲している。すでにみたように20世紀的思想の課題は、マルクス唯物論が開拓した問い、すなわち主観相互、主体相互、主観と主体の対立をいかにして解消するかというものであった。最終的にそれは、非主体的実存と現象学的形式の地平の一致において解消される。形式的唯物論も原則的にこうした理論構造をなしている。主観的地平と社会的地平の対立を、形式的なものの地平において解消させるという意味において。

 しかし、形式的唯物論の地平は、非主体的実存=現象学的形式の地平ではなく、実在性=物質的形式の地平である。ここでは詳しく論じないが、確かに非主体的実存=現象学的形式の地平も実在性を前提としてはいるが、物質的形式はそれ自体が現象学的形式である。いわば実在性=物質的形式の地平は、ある特定された非主体的実存=現象学的形式の地平である。その意味では、形式的唯物論は、20世紀後半の思想からは、むしろ形式的には後退*2しているかのようにみえる。実際その徴候は、柄谷の議論における社会学言語学の欠落として指摘することもできるだろう。以下、この点について少し論じておきたい。



 交換の形式的定義の議論にもどって検討しよう。第3章での形式的再定義を確認しておくなら、国家的主体とネーションは社会的主体から構成される形式であり、市場的物質は社会的物質から構成される形式である。社会的主体は、言明的形式と物質的形式の主体的規定という形式から構成されている。一方、社会的物質は主体的形式と言明的形式の物質的規定から構成される形式である。

 これを踏まえて、社会的主体と社会的物質とまったく同等に、社会的地平における、主体的形式と物質的形式の言明的規定から構成される形式を構成することが可能である。この形式を、社会的言明とよぶことにする。


8.1. 社会的言明とは、主体的形式と物質的形式の、言明的規定である。


 そして社会的物質から市場的物質が構成されるのと同様に、社会的言明から、交換の対象としての形式を構成することが可能である*3。これを情報的言明とよぶことにする。情報的言明における、物質的形式の機能は保存であり、主体的形式の機能は記録/解読である。なお、保存と記録/解読は、社会的地平から構成される形式ではない。このとき、保存という機能を規定する言明的形式は情報形式であり、記録/解読という機能を規定する言明的形式は情報内容である。この情報的言明を対象とする交換をコミュニケーションとよぶことにする。


8.2. 情報的言明とは、主体的形式の記録/解読という機能と、物質的言明の保存という機能が、言明的に規定されたものである。
8.3. 保存と記録/解読は、社会的地平から構成される形式ではない。
8.4. 情報形式とは、情報的言明における物質的形式を規定する言明的形式である。(あるいは、保存を規定する言明的形式。)
8.5. 情報内容とは、情報的言明における主体的形式を規定する言明的形式である。(あるいは、記録/解読を規定する言明的形式。)
8.6. コミュニケーションとは、情報的言明を対象とする交換である。 


 情報的言明から、情報媒体、発信と受信が再定義される。すなわち、情報媒体とは情報的言明の物質的再構成であり、発信と受信は情報的言明の主体的再構成である。


8.7. 情報媒体とは、情報的言明において記録を規定する物質的形式である。
8.8. 発信と受信とは、情報内容という言明的形式によって再構成された記録と解読という主体的形式である。


 ここで定義した社会的諸形式は、社会学および言語学を規定する基本的な形式である。いうまでもなく、社会的主体、社会的物質、社会的言明は、いずれも主体的形式、物質的形式、言明的形式から構成される社会的形式であって、いずれかが優位にある、ということはない。したがって、現実を社会的諸形式に還元する作業において、社会的言明から構成される諸形式だけが排除される理由はどこにもない。しかし、本書『世界共和国へ』における柄谷の議論には、これら社会的言明に関する議論は一切出現しない。確かに『トランスクリティーク』第1部においては、言語論的転回を踏まえた議論をみることができるが、それは物自体とは他者であるというテーゼを正当化するためのものにすぎず*4、最終的な現実の再構成においては、コミュニケーションや情報に関する要素は完全に排除されている。

 では柄谷には、はじめから社会学的、言語学的な問題意識が欠けているのだろうか。必ずしもそれは正しい見方ではない。むしろ柄谷における社会的言明に関する議論の欠如は、現実を実在性=物質的形式の地平に還元する形式的唯物論の必然的帰結として理解したほうがよいだろう。すなわち形式的唯物論において、社会的言明はその物質的再構成であるところの情報媒体に還元され、さらにそれは社会的物質に還元される。こうして社会的言明から構成される諸形式は、交換の対象に包摂されることになる。柄谷に社会学的、言語学的な議論が欠けているのは、決してそれを無視しているからではなく、それが資本=ネーション=国家の問題に含まれるものと見做されているからである*5



 以上のように、柄谷の議論の根幹にある形式的唯物論は、20世紀的思想の典型的な理論的構造を踏襲しながらも、マルクス唯物論のそれをも踏襲している。そのために形式的には後退しているようにみえるし、実際に社会学言語学についての議論が欠落している。では、柄谷は本当に20世紀的思想から後退しているのだろうか。結論から言えば、これもまた正しくない。なぜなら柄谷は実在性=物質的形式の地平を形式化したうえで、形式的唯物論を構築しているからである。

トランスクリティーク ― カントとマルクス

*1:「(すでに考察したように、)デカルトのコギト(我疑う)は、システムとシステム、あるいは、共同体と共同体の「間」において見いだされる。この「間」は、たんに「差異」としてあり、実体的にあるのではない。それは、けっしてポジティヴには語りえず、語られたとたんに見失われる、それ自体超越論的場所である。私は、これを批判的場所(critical space)と名づけたい。」柄谷行人トランスクリティーク』批評空間、p195。「カントの「批判」は、たえまない移動をはらむもので、けっして安定した立場に立ち得ないのだ。そして、私はそれをトランスクリティークと呼ぶ。」同、p198。

*2:十分に形式化しないままに現実を再構成しているという意味で。

*3:むろん形式を形式的に構成可能であるということと、それが現実に機能することとは異なる事態である。しかし、やはり形式的に構成可能な形式は機能するのである。なぜなら形式化によって到達する形式を機能させるのは、形式化そのものだからである。つまり、形式ははじめから機能するものとして形式化される。ただし、ここには20世紀的思想の前提がある。形式化と機能については、改めて論ずる必要があるだろう。

*4:トランスクリティーク』第1部第2章で、柄谷はウィトゲンシュタインがいうところの、規則を共有しない他者との「教える−学ぶ」関係を、商品の「売る−買う」関係に「擬することができ」ると述べている。しかし、その議論は最終的に次のような結論で終わる。「(したがって、)真に「言語論的転回」というべきものがあるとしたら、それは言語によって主観を否定することではなく、逆に、主観を「社会的な」差異における「疑い」において見出すことである。それこそが批判の「場所」にほかならない。」『トランスクリティーク』p114。つまり、ここで柄谷が論じているのは言語そのものではなく、規則を共有しない他者との関係の場所(=形式的唯物論の地平)であって、それ以上のものではない。実際のところ、柄谷においては言語と商品は対等ではないが、それが対等ではないことを正当化する根拠は、形式的唯物論の立場をとるという柄谷の意思だけである。

*5:本論の目的を逸脱するために、ここでは詳しく述べないが、柄谷の議論においては、社会学言語学のみならず、科学論も欠落している。『トランスクリティーク』第1部において、パラダイム論への言及はあるものの、それは社会化された科学に関してであって、自然科学そのものにおける科学的言明の構成に関してはまったく検討されていない。それは柄谷にとって、主観的地平において言明を規定するのは、どこまでも実在性=物質的形式であって、いかなる言明の成立も同等であるということが前提されているからである。