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 東浩紀が自らの政治的立場に関してのメモを公開している。おそらく東は優れた批評家なのだろう。もしここで「現在」なるものが論じられているのだとすれば、それについての東の認識と私の認識に大きな違いはない。ただここに書かれていることで、ひとつだけだが、根本的なところで同意できない部分がある。それは「政治」と物語の関係にかんする認識である。

 このメモのなかで東は、個人の物語の衝突が「政治」なのではなく、共通資源の配分に関わるものはすべて「政治」であるとしている。そして物語なき「政治」、あるいは物語によらない資源配分の可能性について考える必要があると述べる。ここで東が示唆する「政治」とは、彼がいうところの工学的な、つまり誰がどんな思想信条を抱いていようと自動的に治安や資源配分が調整されるシステムのことである。一般に「ポストモダン」とは、大きな物語が衰退し、諸物語が相克する世界のことをさしている。したがってこの物語なき「政治」とは、要するに「ポストモダン」の現実から切り離されたところに成立する思想ないし技術のことだといってよい。しかし、それは果たして成立可能だろうか。

 例えばリバタリアニズムリベラリズムコミュニタリアニズムといった政治思想をひとつ選び、それをその他と対立させながら理論的に洗練させてゆく作業をする人たちがいる。私が興味を抱くのは、彼らがその理論によってすでに誰かを説得していることを自覚しているかどうかということである。「ポストモダン」の現実においては、さまざまな政治思想を抱いたり抱かなかったりする個人がばらばらに存在している。そしてその間に生ずる相克の結果として、ある場所ではどれかが相対的に優位になり、別の場所ではまた別のものが相対的に優位にたつ。そこで、たとえば北米大陸メコンデルタゴラン高原サブサハラもすべてがひとつの政治思想で覆われると考えることは   もちろんそう考えるのは可能だが   それ自体が物語にほかならない。そうである以上、その政治思想も結局は諸物語のひとつとして局所の相克に加わるしかない。このとき、これらの政治思想を支える高度な理論は、局所における説得の技術以上の意義をもたないだろう。かくて、どんなに普遍的な理論を目指して抽象的な考察を展開しても、結局は個別の現実をめぐる議論に還元されてしまうのである。こうしてみれば、特定の思想およびそれに関する議論に先立つところに、自動調整システムのようなものを想定したくなる東の気持ちもわからなくはない。

 ただそこで東は、物語から技術を切り離すことができるとみなしてしまう。私が同意できないのはこの点についてである。あらゆる思想、科学、技術が物語であるというのが「ポストモダン」の現実である。実際に、これら3者は渾然一体となっていて、それぞれが独立して成立することなどありえない。そしてこのもろもろの思想=科学=技術が、地球上のあらゆる地域で、その局所の特性を反映させながら相克している。そこには大局を決定する物語=政治に参加するという、主体的個人の政治的参加(アンガージュマン)などというものは成立しない。われわれは常に局所にあって、局所以外にあるところはない。われわれはいたるところにある局所で、状況に応じてもろもろの思想=科学=技術、つまり諸物語を選択したり選択しなかったりしながら、結果として相克という名の平衡をなしている。これこそが「ポストモダン」における諸物語の相克としての政治である。

 東が想定する物語なき「政治」も例外ではない。諸物語から切り離された工学的な資源配分も、工学じたいが思想=科学=技術である以上、それとしてひとつの物語にほかならない。確かにそれはひとつのありうべき物語で、例えば日本のような経済的、技術的な先進国の都市部であれば一定の現実味を持つ。しかし、そうした条件を満たさない場所では空想の域を越えない。そして地球上を見渡せば、そのような地域のほうが圧倒的に優勢である。私は、だから政治思想として十分ではない、といっているのではない。ただ物語なき「政治」もまた、ひとつの物語として局所の政治に加わり、局所の現実に応じてヘゲモニーを握るしかない現実を確認しているだけである。

 ちなみに、ここで論じていることは、哲学あるいは思想というものをどうとらえるかということにも関わってくる。私のいっていることは、ようするに哲学には局所における思想=科学=技術の相克に関わる余地はないということである。逆から言えば、局所の相克に関わっている時点で、それはすでに思想=科学=技術の一部をなしているのである。勘違いしないでほしいのだが、私はだから哲学は必要ないといっているのではない。ただ哲学はそのようなことを問うものではないといっているのである。

 例えば哲学は「今晩は何を食べたらいいか」というようなことは問わない。もしそう問われたら、哲学は「あなたの体調と栄養と費用を考えて、あなたが決めることだ」とだけ答えるだろう。もちろん実際には、われわれはその問いに様々なアドバイスで答えるのだが、それは哲学とは何の関係もないことである。政治についても同様だ。「人間は平等であるべきか」「資源は再分配するべきか」「自由と平等のどちらを優先させるべきか」と問われたら、哲学は「あなたのおかれた現状と諸々の思想、科学、技術に照らして、あなたが考えることだ」とだけ答える。要するに局所で生ずる人間の諸問題について、つまり政治について、哲学は思想=科学=技術に一切をゆだねる。それしかないと嘆くものでも、それでいいと開き直るものでもなく、単に哲学とはそのようなものなのである。

 繰り返すが、私は東の想定する物語なき「政治」というものを否定するつもりは全くない。ただそれもやはりひとつの思想=科学=技術であり、局所的な物語なのである。その限りにおいては、私はひとつの面白いアイディアだとは思う。しかし、もしそこに思想=科学=技術を統括する何か、あるいは究極の「政治」といったものに対する期待があるとすれば、それは形而上学にしかならない。これは東だけの問題ではない。むしろ東は形而上学を打ち破るぎりぎりのところまで考えている。多くのものは、その遥か手前にいる。