柄谷行人を読む(8)『意味という病』

 いっけんすると、ここには『畏怖する人間』におけるモチーフ   内面と外界の対立とその逆接としての「自然」   がそのまま繰り返されているようにみえます。すなわち、現実感を喪失したマクベスが最後に到達したのは、内面でも外界でもなく、内面をつきつめたところの「自然」だったのだ、というように。もちろん、これはこれでこの「マクベス論」の解釈として間違いではないでしょう。しかし、この論稿が『畏怖する人間』と決定的に異なっているのは、そこに観念という概念が導入されていることです。

事件はもともとどんな現実的契機も根拠もなく、彼らにとりついた「必然性」の観念から生じた。ひとが観念をつかむのではなく、観念がひとをつかむ。ひとが観念をくいつぶすのではなく、観念がひとをくいつぶす。
マクベス論」『意味という病』、p54


 ここでいわれている観念とは、いったい何のことなのでしょうか。一般的にいえば、観念とは内面に相当するものです。たとえば、必ず王になるのであれば何をしてもしなくても一緒だという意識にとらわれているマクベス、そこから突然「人を殺す」という考えが浮かび、想像の中で何度もダンカンを殺しているマクベスは、外界から切り離された内面のなかに閉じこもっています。たしかにこの限りでは、社会の現実からかけ離れた妄想をめぐらせているという意味で、観念と内面のあいだに大きな違いはありません。しかし柄谷がいう観念とは、決して内面そのもののことではないのです。それは柄谷が、冷静で大胆な性格で、通常なら外界に生きる現実主義者、あるいは「マキャヴェリアン」とみなされるだろうところのマクベス夫人についても、マクベス同様に観念にとらわれたものとみなしているところに明らかです。

(いいかえれば、)マクベス夫人には自然性が失われていた。「夫婦」というものが、彼女には絶えず意識的に実現せねばならないもののようにみえたのである。彼女がマキャヴェリアンだとすればそれはまず人々が自然的な秩序の中で安らぎを見出す所に仮構的な意志を必要とする人間だったからである。そうして、彼女が自ら破れてしまうのは、かかる意識性がけっして明快なルネッサンス的精神ではなく、根拠をもたない人間の懸命な自己保持にほかならなかったからである。夫人はマクベスの内面的同類であって、当のマクベスがこのことをよくわかっていた。
マクベス論」『意味という病』、p45


 内面に閉じこもることに対して、内面と外界を意識的に切り離すことが現実的なのではありません。むしろその分離そのものは「仮構的な意志」すなわち観念なのです。ここで柄谷は、内面にあってかつ、それを内面あるいは外界であると捉える視点のことを観念として捉えているのです。このとき『畏怖する人間』における内面と外界の対立と「自然」というモチーフは、「内面/外界」=観念と「自然」=現実という軸から捉えなおされることになります。つまり『畏怖する人間』において「外界/内面→《意識》=「自然」…外界/内面」であったものが、「マクベス論」では「(内面/外界)内面=観念/現実=「自然」」となっているのです。


(続く)


意味という病 (講談社文芸文庫)