柄谷行人を読む(9)『意味という病』

 ここで今後の議論の見通しをよくするために、いくつかの用語を整理しておくことにしましょう。これらの用語は私がここにあることについての2通りの問いに関係するものです。ひとつは私がここにあることについてまさにここにあることを追求するやりかたであり、もうひとつはここにある私を追求するやりかたです。


 たとえば、いま私は喫茶店で椅子に座っています。目の前にはガラス製のテーブルがありその上にはコーヒーのグラスとノート型のパソコンがのっています。隣の席にはカップルが座っていますが、彼らが誰なのか私は知りません。その声は聞こえてきますが、何を話しているのかはわかりません。その向こうにはテレビがあって、何かハリウッド製の映画が流れています。こうして私は周囲を見渡しながら、テーブル、コーヒー・グラス、パソコン、カップル、声、テレビ、映像にそれぞれ注意を向けていきます。そのとき、それらはまさにそこにあるように思われます。少なくともそれらは、私そのものではないものとしてそこにあります。

 一方、ひととおりあたりを見渡したあと、それらに注意を向けることをやめ、私はもの思いに耽ります。今朝病棟でN先生に不機嫌そうな顔で挨拶されたが何か私のせいだったのだろうか、それとも単に当直明けで疲れていただけなのか、それより来週の会議に備えて書類を準備しなくてはならないのが憂鬱だ、今日の夕方はスーパーマーケットに寄って牛乳を買って帰るのを忘れないようにしなくてはならない、といったことが、声や影像や感情などとともに次々とあらわれては消えていきます。そのとき、ついさっきまであったはずの机やカップルの声はどこかに消え去っています。確かに思いに耽るなかで、その姿や形、聞こえる感触を思い出すことはできるのですが、しかしそれらは周囲を見渡してそれを見出したときのそれとは同じものではありません。このときすべては私そのものであり、私そのものではないものとしてそこにあるものはありません。

 このように私がまさにここにあることについてつきつめていくとき、2つの異なるものがあるように思われます。周囲に注意を向けたときに見出されるもろもろのもの(それは物質とは限りません)としての「世界」と、それらに注意することをやめ、ただ思いをめぐらしているところの「意識」です。このとき、まさに意識であるときには世界は背景として消え去り、世界があるときには意識が背景として消え去るように思われます。では意識と世界はどこでどのように異なっているのか、お互いにどのように関係しているのか、あるいはそもそも本当に異なるものなのか。こうした問いを考えることはいまの私たちの課題ではありません。ただ少なくともそのような問いが成り立つことは確かであり、そして実際にそれが問われてきたのは事実です。ひとまずここで私は、この意識と世界の関係のことを実存論的構造、あるいは簡単に実存の問いとよぶことにしたいと思います。


 これに対して、同じように私がここにあることについて、実存の問いとは別のやりかたで問いをたてることができます。それは、ここにある私について問うていくやりかたです。

 私はいま、ニャチャン市の衛生局の近くにある喫茶店に座っています。私がコーヒーを注文すると、アルバイトの女性がアルミのフィルターに粉とお湯をいれて、氷と一緒に持ってきてくれます。このコーヒーは、ベトナムの中央高地で生産者が栽培し、加工工場の労働者の手を経て、トラックの運転手がニャチャンまで運んできたものです。それがこの店に届けられたのは、いま店の前にタキシードを着て立っている40前の男が、半年前に古いビルを改装して喫茶店を開店したからです。つまり彼らが存在し、活動しているから、私はここでコーヒーを飲んでいるのです。しかしそう考えるなら、そもそもベトナム語を通訳してくれる衛生局のスタッフがいなければ、私は仕事を続けることができずにニャチャンを離れていたでしょう。さらにいえば県総合病院、ハノイの衛生疫学研究所で働いている研究者や医療スタッフがいなければ、はじめからベトナムに住むこともなかった。もし彼らがいなければ、やはり私はこの喫茶店でコーヒーを注文することもなかったのです。このように、いまこの喫茶店でコーヒーを飲んでいる私は、どこまでも他の人たちとの関係のなかにあります。

 一方、私はテーブルの上にあるグラスにコーヒーが入るのを待っています。熱帯モンスーン気候の高温多湿な環境のなかで、身体の表面にある汗腺から水分が分泌されています。ほどなくこの水分は蒸発するでしょう。一方でこの発汗により身体の内部では血漿浸透圧が上昇しています。まもなくフィルター中のお湯がすべて落下する。すると身体の一部がグラスを包み、上部にあいた孔の前に移動します。それが少しだけ傾くと、褐色の液体が孔に続く管内に流れ込んでいきます。そして身体の一部に挟まれた、赤く「10,000VND」と記された薄い紙片が前方に移動する。すると青い布をまとった別の身体の一部が、その紙片に接触するのです。このようにコーヒーを飲んでいる私は、どこまでもものとものの関係のなかにあるのです。

 こうしてここにある私について問うとき、まさにここにあることの場合と同様に2つの異なるものがあるように思われます。それは人と人の関係のなかにある「人間」と、ものとものの関係のなかにある「物質」です。このとき私は人間でありまた物質でもあります。ここで、私は人間である前に物質なのか、物質である前に人間なのかと問うのは私たちの課題ではありません。しかし少なくとも人間と物質の関係に関する問いが成り立つことは確かです。私はここで、この人間と物質がなす関係のことを社会論的構造、あるいは社会の問いとよぶことにします。


 このように私については、まさにここにあることについての問い、つまり意識と世界に関する実存の問いと、ここにある私についての問い、つまり人間と物質に関する社会の問いが成り立ちます。ではこの2つの問いの関係はどのようなものなのでしょうか。ただひとりで椅子に座って周囲に注意したりもの思いに耽ったりしているところの私、あるいは、もろもろのひとやものの関係としてあるところの私。いったいどちらが本物の私なのでしょうか。それともその両方が私なのでしょうか。


(続く)


意味という病 (講談社文芸文庫)