「トランスクリティークとポストモダン」草稿

柄谷行人を読む(38)補論II:「日本ポストモダニズムの<起源>:柄谷行人、浅田彰、東浩紀」後編

柄谷は自己言及的な形式体系を問うことをやめた。しかし、この問いは東浩紀の『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』によって反復されることになる。より洗練されたかたちで。 本書で東は論理的‐存在論的脱構築と郵便的‐精神分析的脱構築という2つ…

柄谷行人を読む(37)補論II:「日本ポストモダニズムの<起源>:柄谷行人、浅田彰、東浩紀」前編

柄谷行人の「言語・数・貨幣」は、第二章から唐突に議論の様相が変化する。この論稿は、「内省と遡行」(1980年)以降の柄谷の試みの集大成となるべく、1983年4月から雑誌「海」に連載がはじまった。しかし、その議論は途中から動揺し、同10月には未完のまま…

柄谷行人を読む(36)補論I:自己言及のパラドックスについて

柄谷行人の「形式化」について 柄谷行人は「内省と遡行」から「言語・数・貨幣」に至る論稿において、言明による自己言及的な形式体系について論じた。それは言明において理論と現実の隔たりを解消する試みであった。しかし、柄谷自身は形式化を行っておらず…

柄谷行人を読む(35)<切断I>

さて、大変長い道のりでしたが、ここまでで前期柄谷の論稿群の読解は終わりです。すでに繰り返し確認したように、前期柄谷は、実存と社会の対立からはじまり(『畏怖する人間』)、その対立が理論と現実の隔たりに基づくものであることを見出し(『意味とい…

柄谷行人を読む(34)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

以上で「形式化」期の4つの論稿は終わりです。あらためて、その議論を振り返ってみましょう。 まず「内省と遡行」で、意識と対象の成立を問うことが、下向というひとつの過程に還元されます。そして下向に対して、下向の果てに再び意識と対象に戻る過程が上…

柄谷行人を読む(33)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

要約:「言語・数・貨幣」序章 基礎論 形式化は第一に自然・知覚・指示対象から乖離することで人工的・自律的な世界を構築しようとすることであり、第二に、指示対象・意味・文脈を括弧にいれて、意味のない任意の記号の関係の体系と一定の変形規則をみよう…

柄谷行人を読む(32)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

続いて「隠喩としての建築」と「形式化の諸問題」です。「隠喩としての建築」は「群像」に1981年1月から8月まで連載された論稿です。5つの章から構成されていますが、内容的には第二章までの前半部と、第三章以降の後半部に分けることができます*1。もう一方…

柄谷行人を読む(31)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

それでは「形式化」期の4つの論稿をひとつひとつ読み解いていくことにしましょう。ただし、すでに述べたように、「形式化」期全体を通じて同じ事柄が何度も繰り返し論じられているので、ここでは各論稿の全体像を把握することに主眼をおきます。それにともな…

柄谷行人を読む(30)『内省と遡行』『隠喩としての建築』

今回の読解は『内省と遡行』と『隠喩としての建築』です*1。これまでと違って今回は同時に2冊を読むことになりますが、それには理由があります。 両者は出版年だけを比較すれば、『内省と遡行』が1985年、『隠喩としての建築』が1983年ですから、単行本とし…

柄谷行人を読む(29)方法論的批評としての批評的還元

方法論的批評の方法というものを、あえてひとことで表現するとすれば、それは対象を<批評>の対象に還元する手順ということになるでしょう。対象を対象に還元する、というのは同語反復(<批評>の対象は<批評>の対象である)のようにも聞こえますが、そ…

柄谷行人を読む(28)方法論的批評としての批評的還元

『内省と遡行』および『隠喩としての建築』の読解に移る前に、ここであらためて本草稿の方法論について確認しておくことにします。最初に私は本草稿において、柄谷の一連の著作が、1) 言明としての思考を読解する作業が、2) 2つの切断をはさんで継続されてい…

柄谷行人を読む(27)『日本近代文学の起源』

すでにあきらかと思われますが、最初にも述べたように、本書の議論の構図は『マルクスその可能性の中心』と完全な対称関係にあります。もう一度確認しておくと、『マルクスその可能性の中心』の構図では、まず実存の問いが人間に還元され、人間が物質に還元…

柄谷行人を読む(26)『日本近代文学の起源』

ここまで『日本近代文学の起源』の内容をひととおり読んできました。まとめると、前半部では言文一致と「告白」という制度によって成立する「風景」と「内面」が、中盤部では政治的制度=社会的諸関係によって規定される人間科学が、後半部では「深層」とし…

柄谷行人を読む(25)『日本近代文学の起源』

要約:『日本近代文学の起源』、VI「構成力について」 森鴎外は「理想」を主張することで、坪内逍遥の併列的な分類を時間化しようとした。 しかし鴎外は大正期に入って「歴史小説」を書き、作品における配置を非中心化する。近代文学の配置を形成した鴎外自…

柄谷行人を読む(24)『日本近代文学の起源』

要約:『日本近代文学の起源』、IV「病という意味」、V「児童の発見」 香田蘆花の『不如帰』で、主人公は結核によって美しく病み衰えていく。ここで結核はメタファーとしてあり、結核の神話化がある。 結核菌は結核の原因ではない。結核菌が結核の原因だとい…

柄谷行人を読む(23)『日本近代文学の起源』

そこで、この前半部で論じられている「風景」、「内面」および「記号論的な布置」というものをはっきりさせておくことにしましょう。それにはいくつかの段階が必要です。ここでは「内面の発見」の議論にしたがって、「風景」と「内面」が言=文によって成立…

柄谷行人を読む(22)『日本近代文学の起源』

ではこの諸概念の相互関係に注目しながら、前半部の内容を振り返ってみましょう。まず「風景」とは、さしあたって客観的存在物であり外界のことです。さしあたって、というのは、この言葉が指すものに関して多少の混乱があると思われるからですが、詳しくは…

柄谷行人を読む(21)『日本近代文学の起源』

『日本近代文学の起源』は『マルクスその可能性の中心』と違って、明確な起承転結があるわけではありません。しかし、その論点から大きく3つのパートに分けることができます。すなわち、近代文学の基本概念の成立を論じた前半部(I「風景の発見」、II「内面…

柄谷行人を読む(20)『日本近代文学の起源』

『日本近代文学の起源』は、「季刊藝術」1978年夏号〜1979年冬号、「群像」1980年新年号〜6月号に掲載され、1980年に単行本として出版されました*1。ごく一般的な解釈からすれば、本書の内容は、われわれにとって自明と思われる「風景」や「内面」といった概…

柄谷行人を読む(19)『マルクスその可能性の中心』

あらめてこの自己批判の構図を検討してみてみましょう。まず人間と物質は違うという現実があります。しかし、ただ単に違うというところにはいかなる関係もなく、社会の問いもありえません。社会の問いは、単に違っているだけの人間と物質の間に、何らかの関…

柄谷行人を読む(18)『マルクスその可能性の中心』

したがって柄谷がいう「貨幣の形而上学」批判は、貨幣じたいに向けられたものではありません。貨幣とは、人間と物質のもろもろの関係をすべて物質に還元する唯物論の結果として生み出されたものだからです。その批判は貨幣を生み出すもの、つまりは唯物論を…

柄谷行人を読む(17)『マルクスその可能性の中心』

この現実が、まず使用価値に転化します。それはどのようにしてなされるのか。使用価値というものは、ある物質の「使用」ともうひとつの物質の「使用」を比べるところに生れます*1。たとえば、ただ鉛筆で字を書いている限り、それはどこまでも「使用」にすぎ…

柄谷行人を読む(16)『マルクスその可能性の中心』

最初に私は、本書と『意味という病』の間に「切断」はないと述べました。これからその理由を明らかにすることにしましょう。もう一度、『意味という病』の議論の構図を確認しておきます。それは「実存か社会か」という問いに対して、実存の問いも社会の問い…

柄谷行人を読む(15)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』終章 思考を強いているのは言語である。西洋形而上学において、論理学と存在論は切り離せない。言語における主語と述語を結ぶ「Be(存在)」の問題が、そのまま存在論に移行する。 同様に「貨幣の形而上学」は、関係を存…

柄谷行人を読む(14)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第5、6章 『資本論』は商品というテクストを「読んだ」。マルクスの思想に切断を見出す作業は恣意的である。マルクスの思想は、テクストの読解にある。一般に切断といわれるところで、マルクスはただ移動したのである。 …

柄谷行人を読む(13)『マルクスその可能性の中心』

要約:『マルクスその可能性の中心』第2〜4章 2つの商品が等置されるとき、一方の商品の価値は、他方の使用価値で示される。このとき、相異なる使用価値から価値がうまれる。これが相対的価値形態と等価形態の結合である。 これが「拡大された価値形態」にお…

柄谷行人を読む(12)『マルクスその可能性の中心』

書物としての『マルクスその可能性の中心』には、表題作である「マルクスその可能性の中心」以外にも、「歴史について 武田泰淳」、「階級について 漱石試論I」、「文学について 漱石試論II」という日本文学に関する3つのエッセイが収められています。柄谷自…

柄谷行人を読む(11)『マルクスその可能性の中心』

今回は『マルクスその可能性の中心』をとりあげます。参照するのは1990年発行の講談社学術文庫版です。 本書は、いうまでもなく柄谷の代表作のひとつであり、一連の論稿群を読解する作業においてもひとつのメルクマールとなるものです。一方で、そのタイトル…

柄谷行人を読む(10)『意味という病』

このように考えると、柄谷が何を議論しているのかがはっきりするでしょう。まず、これまでとりあえず内面と外界という言葉でよばれてきたものは、正確に実存と社会に置き換えられなくてはなりません。そうすると『畏怖する人間』での柄谷は、私たちの生の本…

柄谷行人を読む(9)『意味という病』

ここで今後の議論の見通しをよくするために、いくつかの用語を整理しておくことにしましょう。これらの用語は私がここにあることについての2通りの問いに関係するものです。ひとつは私がここにあることについてまさにここにあることを追求するやりかたであり…