サルトルの世紀

サルトルの世紀


 サルトル関係の書物を紹介する以上、この本もとりあげなくてはならないだろう。本書はベルナール=アンリ・レヴィによる、サルトル「復興」の書である。とはいえ、正直なところ、個人的にはさっぱり面白いと思わなかった。要約する気にもならないので、かわりにいくつか書評をとりあげておく。興味がある方はそちらを参照していただきたい。


   浅田彰「「サルトルの世紀」を振り返る」
   永野潤「ベルナール=アンリ・レヴィ『サルトルの世紀』書評」
   澤田直「新たなサルトル像」


 なぜ、私には本書が面白くなかったのだろうか。決して、内容が正確ではないとか、そのサルトル解釈が間違っているというようなことが、その理由ではない。あるいは著者の政治的な振る舞いが気にくわないからでもない(そもそもこの著者のことはよく知らない)。ただ本書で著者が、肯定的にであれ、否定的にであれ、破格の人物としてのサルトルを描き出そうとすればするほど、私は興味をそがれてしまうのである。

 あらためて確認しておく。著作や言動の断片から、著者というものを再構成すること、それはまさにサルトルのやり方である。

「あなたがフローベールについて行なっている解明作業を、だれかがあなたについて企てはしないかと、いささか心配になることはありませんか?」と、ある日だれかが彼(サルトル)に訊ねた。
「それどころか、嬉しいだろうね」と、彼は答える。「どんな作家もそうだが、私も姿を隠すのさ。ただ私は公的な人間でもあるから、人びとは私について好きなように考えてくれて構わない。厳しいことであっても……。」
「後世の審判に対して、何の恐れも感じないのですか?」
「何の恐れもないよ。好意的な審判がくだされるだろうと確信しているからではない。ただ何らかの審判がくだされることを私は願っている。だから手紙類や、私生活についての資料を除去してしまおうなどという気にはならないのだ。そうしたものはいっさい合切、人の知るところとなるだろう。その結果、私が後世の目から見て   後世が私に興味を持つとしての話だが   フローベールが私の目から見て透明であるのと同じぐらい透明であるとしたら、結構なことだ。」
コーエン=ソラル『サルトル』、p29。


 要するに、本書は現代のサルトルを自認する著者が、まさしくサルトル的にサルトルを解明した(審判をくだした)ものなのである。しかし、サルトルがどのような人物であったのかということなど、現在のわれわれにとって、もはやどうでもいいことである。端的にいって、私はサルトル的なものには、もううんざりしている。なぜなら、いたるところがサルトル的なものによって占拠されているからである。

 もちろん、だからこそサルトルを読まなくてはならないのだ。サルトル的なものを死滅させるために。そしてそれは、徹底的に非サルトル的な作業でなくてはならない。それには、まず読む主体を準備するところからはじめなくてはならないだろう。