イラワジ川の<3時間>
職業柄、他人の体験した話を聞く機会が結構ある。
多くの場合、そうしたエピソードを想像で追体験することは可能である。
指先に怪我をした高齢の男性がいた。
理由を聞くと「家で親子げんかして、子供(成人)に噛まれた」らしい。
いい歳して年老いた親を噛む奴がいるのかとおもいつつも、自分の親の顔を思い出しながら、その現場を想像することはできる。
しかし、そうした想像にも限界がある。
言葉と文化を共有しない人の体験の場合、とたんに現場のイメージのリアリティが乏しくなり、時には何か絵空事のようにしか聞こえないことがある。
5年前、スリランカ北西部のタミル人難民キャンプで診療をしていたときのこと。
ときどき「夜、田んぼで寝ていたら、茂みからタミル・タイガーが出てきて殴られた」という患者が来ることがあった。
何人かいたので本当なのだろう。
関係者に聞いてみると、どうやらタミル・タイガーはタミル人から暴力的に金や食料を巻き上げているらしい。
しかし、それが事実であると頭では理解できても、「田んぼでタイガーに殴られた」という通訳の言葉がいささかコミカルに響くだけで、私には、どうしても目の前にいる患者が遭遇した現場を、実感を持って想像することができなかった。
他人の体験を追体験するには、やはりあらかじめ何かしらのものを共有していなくてはならない。
***
なぜ、こんな話をしているのかというと、ミャンマーの被災地で活動した医師のレポートの中に、こんなくだりがあるのを読んだからだ。
特にある夫婦のことを鮮明に覚えています。私がふたりの軽い切り傷を診察し、言葉をかけているうちに体験を語ってくれたのです。この夫婦はサイクロンを生き延びましたが、3才か4才くらいの子どもは不幸にも亡くなりました。嵐が始まって水位が上昇した時は、まだ3人揃って生き延びようとしていました。嵐は 6時間から8時間続きました。嵐のさなかで3、4時間経った頃、男性は妻にこう言いました。「子どもを助けなければならないから、お前のことは助けられない」。妻は「いいわ、この子を連れて行って。この子を助けてちょうだい」と答えました。男性は、娘を肩に背負いひたすら泳ぎ続けましたが、3時間が経過した頃にこう告げました。「これ以上お前を助けられない。そうすればふたりとも死んでしまう」。こうして男性は娘を失いました。娘を見捨てざるを得なかったのです。妻は木切れか何かにつかまって助かり、その後ふたりは避難民キャンプで再会しました。ふたりとも私の前で泣き崩れ、私たちは皆泣きました。
一読して、私はこの記述に全く現実味を感じなかった。
なぜだろう。
おそらくこの医者は、仮設テントのなかに開設したクリニックでこの話を聞いている。
喋っている当の夫婦は、感情が高ぶっていて、要領よく自分たちの体験を語ることができない。
そこから医者が、直接か通訳を介してか事実と思われる部分だけを抜き出して再構成している。
さらにそれが日本語に翻訳されている。
その過程で、何か別のエピソードが作り上げられているのだ。
では、本当は何があったのだろう。
ここで記されている<3時間>という数字は、まず事実ではない。
そんな状況で、いちいち時計など見ているわけがないし、時間の感覚も狂っているだろう。
本当は30分だったのかもしれない。
「これ以上お前を助けられない。そうすればふたりとも死んでしまう」という平板な台詞も、想起と通訳と解釈の課程でわかりやすく創作されたものに違いない。
語られた体験などというものは、得てしてそんなものだ。
となると、確実に言えることは、先月のはじめ、男はイラワジ・デルタの濁流を泳ぎ、自分にしがみついている娘に何か言葉をかけ、その小さな手を離した、ということだけである。
そこまで考えたとき、私には、この見ず知らずの男が遭遇したであろう状況が、なぜかありありと思い浮かべられ、ひどく悲しい気持ちになったのだった。