正しいことを言えばそれで何かどうにかなるのかね、この言論過剰の時代に

innhatrang2008-06-18



今朝も病院の近くで不法屋台の強制撤収。

このところ、毎日のようにこういう光景をみかける。

来月に迫ったミス・ユニバース大会に備えて公安がはりきっているらしい。


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さて、目に入ったのでいちおうコメントしておく。

『思想地図』発刊記念シンポジウム
「公共性とエリート主義」
東浩紀×北田暁大×姜尚中×宮台真司×鈴木謙介

http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20080617/1213664146
http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20080616/p1
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080617/1213688976


「公共性とエリート主義」   いまどきの日本の思想家や文系の学者たちは、なぜこんな奇妙な話をしているのか。

シンポジウムを聞いている人には、その本当の理由がわからなかっただろう。

それは話している人たちにもわかっていないからである。

だから摂氏36度の共産党一党独裁国家から、私が代わりに説明しよう。


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今更いうまでもないことだが、現在は言論過剰の時代である。

われわれの手もとには、容易に情報を発信する手段がある(もちろん、それは日本を含む先進国の一部に限られるが、現実的にこの文章を読むのは日本人だけなので、以下いちいち断らない)。

その結果、新旧問わずあらゆるメディアにおいて、膨大な量の言論が渦巻いている。

それらは、保守から革新まで、あるいは現実派から理想派まで、ありとあらゆる見解の可能性を網羅しながら、日々増え続けている。

そんななか、誰かの発する<正しい意見>はどのような運命をたどるか。

大半はその他の大量の<正しい意見>のなかに埋もれ、いつまでたっても社会に影響を及ぼすことなく、単なる意見のままでその一生を終える。

非常に運がよければ、一部の有権者の投票や消費行動に影響し、あるいは一握りの「有能な」政治家や官僚やマスコミの力によって、多少は社会に反映されるかもしれない。

しかし、たとえ反映されたとしても、そもそも無数に<正しい意見>があるのだから、どれかひとつだけが社会を全面的に支配するなどということはありえない。

かくて<正しい意見>が社会に及ぼす影響は果てしなく小さなものとなる。


また、この言論過剰は、同時に発言者の過剰でもある。

無数の発言者たちは、そのほとんど影響力のない言論を手にどう振舞うか。

いつまでたっても自分の<正しい意見>は社会に反映されない。

誰の責任か。

もちろんそれは、<正しい意見>を発している<正しい自分>の責任であるはずがない。

それは、それを反映するはずのもの、つまり政治家、官僚、マスコミ、大衆の責任である。

だから社会には原理的に「無能な政治家や官僚」「マスゴミ」「無知な大衆」しか存在しないことになる。

ちなみに「若者の苦悩を知らない大人たち」というのもこれに入る。

しかしこの発言者たちも、自らの<正しい意見>を反映させるには、結局はこの「無能」で「ゴミ」で「無知」な連中に拾い上げてもらうほかはない。

だから自分の意見が人の眼に触れる頻度を上げようと、その言論を増産し続ける。

こうして言論は果てしない価値下落のサイクルに陥る。


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さて、この状況に困っているのが昔ながらの思想家や文系の学者たちである。

彼らは、これまで社会を分析し、<正しい意見>を言うことで、社会を導いたつもりになってきた。

彼らには<正しい意見>だけが社会への介入手段であり、「正しいことを言えば何かがどうにかなる」と信じている。

しかし、この言論の価値下落のサイクルのなかで、思想家がいかに<正しい意見>を叫ぼうと、それが社会に及ぼす影響は微々たるものだ。

そこで彼らは、なんとかそれを反映させる方法を考える。

自分の<正しい意見>を、言論以外の力をかりて社会に反映させる回路を夢想する。

それがこの「公共性とエリート主義」に他ならない。


彼らは言う。グローバリゼーションによって社会の関係が希薄になった。

だからそこに「公共性」を回復する方法を考えなくてはならない。

このとき、そこで回復されるものとして想定されている「公共性」とは<正しい意見>を反映する回路のことである。

ではその<正しい意見>を発するのは誰か。

それはもちろん思想家である。

結局彼らは、自分たち思想家の<正しい意見>(だけ)を社会に反映する回路を確立せよ、と社会にむかって叫んでいるのである。

それが宮台の「エリート(<正しい意見>を社会に反映する特定集団)」であり、東の「政治システム(個人の現状認識によらず自動的に<正しく>社会の動きを調整する力)」であり、あとは誰が言っているのかよく知らないが「方法としてのナショナリズムナショナリズムを利用して人々を政治参加させ、民主的に<正しい意見>を反映させる)」とかいうものなのである。

じつに単純な話である。

もちろん、それが本当に実現されるなら、それはそれで結構なことだ。

しかし悲しいかな、どこまでも「正しいことを言えば何かがどうにかなる」という考えが染み付いている彼らは、結局、この「エリート主義」とか「政治システム化」とか「方法としてのナショナリズム」すら、人前で論じさえすれば誰か   つまりは政治家や官僚やマスコミや大衆   がどうにかしてくれると思っているのである。

じつにナイーブな人たちである。

残念ながらそれは無理である。

そもそも言論の価値下落を背景として、言論以外の力に頼ろうとしているのに、それを言論だけでどうにかすることなどできるわけがない。

だいたい、こんな微小な思想家サークルの中でさえ<正しい意見>が違うのである。

そのどれかひとつどころか、どれひとつとして実現しないだろう。

かくして彼らは、われわれブロガーを含む無数の無名の発言者たちとともに、「無能な政治家や官僚」「マスゴミ」「無知な大衆」「若者の苦悩を知らない大人たち」への不満を言い募り、言論の価値下落に加担するだけなのである。


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もっとも、その意味では「口先だけの思想家」に向けられたこのエントリーも同罪なんだけどね。