書評:福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
昔話からはじめよう。
もう10年以上も前のことだが、医学生時代、私は生命科学の一般啓蒙書を読むのが好きだった。
科学的事実だけが並んでいる教科書とは違って、生命とは何か、遺伝子とは何か、脳とは何か、といった本質的な問いに迫る自由な発想がそこにはあった。
そういう本では、たいてい「古い」要素還元主義が批判されていて、「新しい」システム論的な考え方こそ重要であると主張されていた。
<有機体のシステム>――その言葉は当時急速に普及しつつあったコンピューターのイメージと相まって、とても魅力的に聞こえたものだ。
しかし、6年生になったある日のこと。
大学病院での脳神経外科の臨床実習中に、同級生が指導教官に聞いた。
「脳はシステム」という考えについて、先生はどう思いますか?と。
30代で現役バリバリの脳外科医はその質問を一蹴した。
「そんなもの、どこにあるんだよ?俺は毎日、脳を触っているけど、どこにもないぜ!」。
なんと「古い」人間だ、私はそう思いつつも、何も反論することができなかったのだった。
***
こんなことを思い出したのは、分子生物学者・福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』を読んだからだ。
ちょっと前に出た本だから、何をいまさらと思われるかもしれないが、そこはベトナム在住ということでお許し願いたい。
この本は、新書のベストセラーとしては例外的に面白い本である。
本書で福岡は、生命科学の歴史を人間ドラマとして描きながら、ルドルフ・シェーンハイマーの実験を参照しつつ、ひとつの生命像を提示している。
それは<生命とは動的平衡にある流れである>というものである。
フレーズそのものはやや陳腐だが、要するに、諸々の物質がただランダムに移動していて、その過程で相互に接触する結果として生命が形成される、というようなイメージである。
この考え方はシンプルだが、とても興味深いものだ。
河本英夫は『オートポイエーシス――第三世代システム』で、<有機体>をモデルとしたシステム論を大きく3つの世代に分類している。
それによれば、第1世代の代表が動的平衡システム、第2世代の代表がハイパーサイクル、第3世代がオートポイエーシスである。
しかし、福岡の示す生命像は、そのどれにも属さない*1。
内部と外部という概念がないのはもちろんのこと、それ以前に、根本的に構成素を産出するという概念がない。
すべてが物質=構成素だから、産出される必要がないのだ。
そして、あるのはただそれら物質の持つ物理的な特性だけである。
その結果としてさまざまな構造が形作られるが、それに何か働きがあるわけではない。
細胞とか個体とかよばれるものは、その<流れ>の一断面にすぎない。
ここで注目すべき点は、この生命像を一般化して脳とか人間社会にあてはめることはできないということである。
なぜこの点が重要なのか?
いわゆる広義のシステム論(一般システム論)はその起源において、生命科学の知見に多くを負っている。
そしてそれは一般化され、工学、人文科学、社会科学の分野で展開され、大きな達成を果たしてきた。
しかし、私のみるところ、ますます発展しつつあるシステム工学の領域は別として、<有機体>そのものをシステムとみなす考え方は過渡期を迎えている。
何が問題なのか。それは結局、あの脳神経外科医の一喝「そんなもの、どこにあるんだよ?」に集約されると思う。
これを頭の悪い素朴実在論者の放言と思ってしまうようでは甘い。
彼が言いたかったことを、好意的に解釈すればこういうことだ。
たしかにシステムという考え方は脳の現象を説明するし、それを利用して現実的に最先端の医療機器が開発されてはいる。
しかし、俺たち脳外科医はそんな理屈に関係なく、毎日、血を観ながら脳に触って治療しているんだぜ、と。
人文科学系のひとたちなら、脳を人間社会に、治療を介入とか変革に置きかえてみれば実感がわくだろう。
要するに、<有機体>をシステムに還元する考え方=システム還元主義は、その対象に介入しようとする瞬間に、対象との現実的で素朴な一対一関係に差し戻され、すっかり骨抜きにされてしまうのである。
もっとも、こんなことは私なんぞが言うまでもなく、勘のいい人はもう気づいていることだ。
われわれはそろそろ「要素還元主義vsシステム還元主義」の対立を超えて、<有機体>への介入の理論化を模索する時期に来ている。
そのためには、少なくとも、生命も脳も人間社会も同じシステムだといって、「タンパク質」や「イメージ」や「コミュニケーション」を一緒くたに扱ってしまうような考え方は捨てなくてはいけない。
私が、福岡の示す生命像が一般化できない点が重要だといったのはそういう意味だ。
もちろん、その議論そのものはまだ介入への視点が乏しく、理論的にも未熟である(新書では仕方ないが)。
しかし、少なくとも既存の<有機体>論から新たな一歩を踏み出していることは間違いない。
皆さんも、本書をもう一度アカデミックな視点から読みなおしてみてはどうだろう?
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