白石市民の、白石市民による、白石市民のための「日本」思想では、「日本」は微塵も変化しないんじゃないのかい
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先日の『思想地図』のシンポジウムに関するエントリーに対して、賛否両方のコメントを頂いた。
どうもありがとう。
さて、そのなかにこのような指摘があった*1。
いわく、これは出版のイベントにすぎないのであって、宮台真司や東浩紀らは書籍の売り上げを増やすために意図的に対立を演じて見せているのだと。
これを拡大解釈すれば、宮台や東は<正しい意見>ではなく、言論の消費を問題にしているのだから、決して「正しいことを言えばそれでどうにかなる」と信じているわけではないということになる。
いいだろう。
彼らの心のうちは知りようもないが、そうは信じていないといわれればそうなのかもしれない。
しかし、当人たちがどう思っていようと、結局、彼らはそう信じているのと同じように振舞っているのではないか。
宮台や東自身がどう言っているか知らないが、言論の内容が正しいかどうかではなく、その言論が社会内でどう消費されるかが問題なのだとしよう。
つまり、抽象的な考察によって導かれた<正しい意見>を社会に広めるのではなく、社会の需要に応じた言論を発することが重要なのだと。
一見、後者は前者と違って、より現実的で実践的な行為のようにも見える。
しかし、実際には何も違わない。
前者が理論によって<正しい意見>を導き、後者が社会の観察によって<正しい意見>を導いているというだけのことである。
それを導く過程がどうであれ、言論を発すればそれが社会に影響すると信じている点では何ら変わらない。
その意味では、彼らは、彼らがすでに過去の遺物として葬ってしまった柄谷行人と同じである。
柄谷は「自由でなくとも自由であれ」という倫理、そして「無限の未来にむかってアソシエーショニズムを実現せよ(市場経済において利潤を生まない交換をめざし続けよ)」という理念を示す。
この奇妙な倫理=理念は、実は「この命令に従うな」という禅問答の裏返しである*2。
禅問答は聞くものを身動きできなくさせるが、柄谷の倫理=理念は聞いたものを一切拘束しない。
逆に言えば、それを聞いたものの行動に影響を及ぼさない。
要するに、何か深遠なことを大声で叫んでいるように見えて、実際には何も言っていないのと同じなのである。
しかし、柄谷はこれこそ社会変革の手段であるとして社会へ向かって叫び続けている。
それが思想家の使命であると信じて。
その結果は、当人と読者との間にそこはかとない連帯感を醸し出すだけで、現実の問題はほったらかしにされたままである。
言っている内容こそ違えど、宮台や東の言論もこれと同じことだ。
どんなに社会はこうあるべきだと叫ぼうと、結局その「社会」は彼らの言葉を聴いているものの範囲を超えず、いつまでたっても当の現実には到達しないのだ。
私の言っていることに納得がいかないというなら、柄谷や宮台や東の著作をすべて読み、言論をつぶさに追いかけ、それに賛同している人間がどれくらいいるか想像してみるがいい。
せいぜい、それぞれ数千人だろう。
その名前と思想が一致し、なんとなく好感を抱いているというところまでひろげれば、3人合わせれば数万人はいるかもしれない。
私は昔、宮城県南部にある白石市というところの病院で仕事をしていたことがある。
山間の小さな街で、うーめんが特産である。
この白石市の人口が4万人弱である。
確かに彼らの言論は、この白石市民に相当する数の人たちには影響を与えるかもしれない。
では、非常にありそうもないことだが、この3人が一致団結し、その思想を統一したとしよう。
それで白石市民の全員が覚醒し、立ち上がったとして、日本の社会構造が変わるのか?
変わるわけがない。
世界の貧困にあえぐ子供たちが苦悩から解放されるのか?
そんな馬鹿げたことがあるはずがない。
せいぜい、隣の蔵王町の住人に影響が出るかどうかという程度のものである。
もちろん3人ともそれぞれ優秀なひとたちであるから、それくらいのことはわかっているはずだ。
つまり彼らははじめから本気で社会や世界を変えるつもりはないのである。
ただ、市役所のまえで「日本社会」や「世界」の問題を解決する方法を模索してみせ、市内に住む人たちの知的プライドを満足させることで、住民が日々安心して暮らせるように差し向けているだけなのである。
要するに、彼らの言論というのは読者に向けて処方される安定剤にすぎない。
それが読者を確保するために他人より<正しい意見>を繰り出そうと躍起になっている、新聞の社説やわれわれブロガーのエントリーといったい何が違うというのか。
違う?
では、何が違うのか教えてほしい。