(2)
想像してみよう。
ごく一部の人間だけが情報にアクセスできる、閉じたコミュニティがあるとする。
このコミュニティでは、情報にアクセスできる人間が、特権的にコミュニティのなかで何がおこっているかを<正しく>把握することができる。
そしてそこから<正しい意見>を導き、コミュニティに向かって発することができる。
この<正しい意見>はコミュニティ内の人々の行動に強く影響するだろう。
ほとんどの人は、コミュニティの内部の「現実」を知らないからだ。
このとき、その<正しい意見>によってコミュニティの「現実」を変えるものは、知識人あるいは思想家とよばれる。
次に、情報網の発達によって、誰もが情報にアクセスできる開かれたコミュニティになったとする。
ここでは誰でも自由にコミュニティの内部や外部の「現実」を知ることができる。
こうなると、権利上、全員が「現実」について<正しい意見>を持つことができる。
しかし、誰もが<正しい意見>を持っているのだから、逆に他人の<正しい意見>には耳を貸さなくなる。
こうして開かれたコミュニティでは、個々の<正しい意見>が「現実」に及ぼす影響は小さくなる。
同時に、かつて閉じたコミュニティにおいて特権的な役割を果たしていた思想家もいなくなる。
ただし、決して思想家そのものがいなくなるわけではない。
コミュニティのいたるところが、無数の名もなき思想家によって埋め尽くされるのである。
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もちろん、これはたかだか思考実験にすぎないし、実際にこのような現象がおこっているというわけではない。
しかし、こう考えると、現在のわれわれの直面する状況を理解しやすくなることは確かだ。
多くの人たちが、自分の<正しい意見>を主張している。
そしてそれをコミュニティの「現実」に向かって発している。
しかし誰もが<正しい意見>を主張しているから、自分の意見を通すには、まず他人の<正しい意見>との違いを強調しなくてはいけない。
こうしてコミュニティの「現実」をめぐって無数の党派が形成される。
この党派のあいだでは、構成員がめまぐるしく移り変わる。
しかしお互いにけん制しあうばかりで、「現実」そのものには何一つ影響が及ばない。
かくて名もなき思想家たちは「どうせ自分の意見など社会に反映されるはずがない」と断念するしかないのである。
これはほとんどヨーロッパ中世の神学の世界である*1。
何か「現実」に問題があれば、一斉にいたるところでその意味と社会のあるべき姿について喧々諤々議論が展開される。
もし、そのなかで誰かが「正しいことを言えばそれで何かどうにかなるのか?」という問いを発したとしよう。
すかさず、それは議論の梯子はずしだとか、そんな古臭い議論に付き合えないとか、自分だけメタな視点に立とうとしているとかいう感情的な返事が返ってくるか、それでも言論以外に手はないのだからと急にトーンダウンするか、多くの場合は単に無視されるだけだろう。
しかしその苛立ちに満ちた反応は、「神に祈ればそれで何かどうにかなるのか?」という問いに対する神学者のそれと何が違うのか。
何も違わない。
ただ対象が「神」から現代社会の「現実」に、方法が「信仰」から「言論」かわったというだけのことである。
われわれにとって、言論と「現実」の関係は絶対である。
「現実」に向かって言論を発することが重要なのであって、その言論が「現実」に反映されるかどうかは問うてはならない現代のタブーなのである。
この問題意識に立つ限り、私はこれまで言及してきた、柄谷、宮台、東、あるいは浅田彰といったひとたちに、いくらかシンパシーを感じはする。
彼らは少なくとも、「<正しい意見>を言いさえすればそれでよい」とは思っていない。
だから「現実」を変える運動を組織しようとしたり、意図して挑発的な振る舞いをしたり、あるいは唐突にスタンスを変えてみたりする。
そこには彼らのためらいがある。
しかし、どんなに心の中で悩んでいようと、最終的に言論に訴えていることに変わりはない。
「<正しい意見>を言いさえすればそれでよい」と思っていようと「<正しい意見>は不可能だがそれを言うしかない」と思っていようと、やっていることは同じである。
結局彼らも、「現実」神学に身を捧げる言論万能主義者に過ぎないのだ。
(不定期に続く)