昨夜、リビングのマットレスの上で『差異と反復』を読み、そのまま置きっぱなしにしていたら、娘が表紙カバーをぐちゃぐちゃにしてしまった。かじられなかっただけましである。日本語訳の小見出しごとに要約していく。要約は徹底して哲学的におこなう。

「序論 反復と差異」

反復と一般性――行動の視点からする第一の区別
要約:
 反復と一般性を、行動から区別する。一般性には、類似と等価という2つのレベルがある。一般性は、項の交換可能性ないし置換可能性によって定義される。一方、反復は、項の交換不能性ないし置換不可能性に関わる。

一般性の2つのレベル――類似と等しさ

要約:
 一般性は法則のレベルに属している。法則は、法則に従う諸基体と諸項との、類似と等価を規定している。

法則の視点からする第2の区別

要約:
 自然法則は実験においてみいだされる。実験において、類似が等価に置換されることで、自然法則は実現される。このとき、一般性と一般性のあいだに、反復が出現しうる。

反復、自然の法則と道徳法則

要約:
 自然法則に対して、道徳法則がある。自然法則は自然の一般性であり、道徳法則は習慣の一般性である。したがって、習慣においても類似と等価という2つのレベルがある。

解題:
 ここでのドゥルーズによる一般性の記述は、あまり明確であるとは言えない。反復を一般性に対立するものとして描き出すために、まわりくどい記述になっている。
 説明不足を補いながら、一般性について明らかにしておく。ここで述べられている一般性とは、つまり経験論的な系のもつ特性である。経験論的な系は、推論によって規定される論理系と、操作によって規定される対象系からなる。類似とは論理系における対象と述語の結びつきであり、等価とは対象系における操作の対象の相互関係である。法則とは系の相互関係のことであり、当然ながら法則の成立は系の成立に等しい。法則の成立に際して、実験において類似が等価に置換される、つまり論理系と対象系が相互に規定されることで系が成立する、というドゥルーズの指摘は正しい。
 また、ドゥルーズは、自然法則と道徳法則を区別している。自然法則とは「〜なら〜になる」であり、道徳法則とは「〜するなら〜をする」である。ここで自然という言葉は、意識に先立つもの、意識を含むもの、意識と対立するものの3重の意味で用いられている。

 補足しておこう。すでに記したように、私はこの本を読む際に、「テクストの読解」なるものに与しない。例えば自然法則と道徳法則について、ドゥルーズは次のように記している。

しかし意識は両義的なものであって、その両義性とはつぎのようなことである。すなわち、意識は、道徳法則――自然法則の外にあり、それに優越しており、それとは無関係な道徳法則――を立てることによってでしか、おのれを考えることができないのだが、しかし意識は、自然法則の影像(イマージュ)と範型(モデル)をおのれ自身のうちに復元することによってでしか、道徳法則の適用を考えることができない、ということ。
『差異と反復』p24

 ここでドゥルーズは、カントのいう自然法則と道徳法則の関係を、形式的に再定義している。しかし、このように形式化された自然法則なり道徳法則は、すでにカント自身の用語とは異なるものである。例えば、ドゥルーズによって形式化された道徳法則は、価値判断を含んでおらず、むしろ社会法則、行動規則とでも呼ぶべきものに変わってしまっている。にもかかわらず、ドゥルーズは、あえてカントの用語を肯定的に使用しながら、それらを相対化する視点を提供することで、間接的にカントを乗り越えることを示そうとしている。
 ここには、この本を、哲学史のなかに位置づけながら読んで欲しい、あるいはテクストの空間の中で読んで欲しいという期待がある。確かに、「はじめに」において、あらかじめ哲学史を利用することが宣言されているのだから、それを承知で読む以上、このようなドゥルーズの書き方を否定するつもりはない。しかし、あいにく私は西洋哲学史の研究には興味がないし、そもそもここニャチャンでは参考文献も入手しづらいので、この本をただ哲学的に読むだけである。したがって、ドゥルーズ自然法則なり道徳法則という言葉を用いるとき、その意味するところを哲学的に位置づけるが、それを哲学史の中に位置づけるようなことは一切しない。
差異と反復