ようやく今回で序論が終わる。p53-p55まで。

概念的差異と概念なき差異
要約:
 内在的な概念的差異と、外在的な空間的差異に先立って、内的差異が存在する。内的な連続的反復によって、内在的諸差異と外在的諸差異は調和する。

しかし、差異の概念(《理念(イデア)》)は、概念的差異に還元されることはなく、同様に、反復の定立的な本質は、概念なき差異に還元されることはない
要約:
 差異の概念は、概念的差異に還元されることはなく、反復の本質は、概念なき差異に還元されることはない。差異の概念は、《理念(イデア)》における特異性を要求し、反復の本質は、《理念(イデア)》の力=累乗(ピュイサンス)としての特異性を示す。差異と反復の関係を、最初から定立することはできない。

解題:
 序論の最後にきて、ようやく、差異と反復の関係が述べられている。まずは述語の整理から。内在的、外在的とは、経験論的かつ経験的に把握された系の、それぞれ概念と対象の領域である。あるいは、経験論的かつ経験的なものにおいて、思考に関わるのが内在的領域であり、実在性に関わるのが外在的領域であるといってもよい。これに対して、内的とは《理念(イデア)》の領域であり、前回述べたように、これは経験論的形式を規定する地平である。

 さて、内在的差異、外在的差異、内的差異の関係について、『差異と反復』の議論に従って明らかにしよう。ドゥルーズも引き合いに出している、2枚の木の葉を例にとる。目の前にある2枚の木の葉は、木の葉という概念を共有しながらも、現に2つの異なる存在である。このように、ある概念を共有しながらも、現実的に異なる存在として認識されるとき、そこには外在的差異がある。一方、2枚の木の葉の相違は、種の相違や、色の相違、大きさの相違、形状の相違、質感の相違、さらには位置的な相違*1などによって記述することが可能である。このとき、外在的差異は、概念的な差異に置き換えられる。この概念的差異が、外在的差異に対する内在的差異である。しかし、いかに2枚の木の葉の相違を概念的に置き換えようとも、つねに現実的な相違はそこにある。こうして外在的差異と内在的差異の繰り返し=(連続的)反復が生ずるが、それでも、目の前にある2枚がひとつになるわけではない。しかし、決して無関係であるわけではなく、現にそこに2枚の木の葉があるという事態は変わらない。そこに、内在的差異と外在的差異に先立つところの、内的な差異がある。

 この、概念と対象の関係を規定するものでありながら、概念そのものでも対象そのものでもないものとして見出される内的な領域は、前回出てきた《理念(イデア)》の領域である。それは、経験論的形式を規定する地平である。前回の範囲では、この《理念(イデア)》の領域に着衣の反復があり、それが裸の反復となり、一般性をなすことが述べられていた。つまり、この《理念(イデア)》において、内在的差異と外在的差異に先立つ(内的な)差異と、裸の反復となり一般性をなすところの(着衣の)反復がある。ここに、差異と反復が交わるのだと、ドゥルーズは言う。

差異と反復という2つの基礎概念の出会いは、もはや最初から定立されえず、反対に、反復の本質に関わる線と、差異の理念に関わる線という、2つの線が相互に干渉し、交差することによってようやく出現するにちがいない。
『差異と反復』p55

 まとめてみよう。経験論的かつ経験的に把握された系において、概念相互の差異があり、対象相互の差異がある。それらの差異は、概念と対象の相互関係、つまり表象=再現前化において、現実的*2に反復される。しかし、表象=再現前化によらずに差異を生み出す反復があり(着衣の反復)、概念と対象の関係に先立つ差異がある(内的な差異)。この差異と反復の関係は、経験論的かつ経験的な領域に先立って、経験論的形式を規定する地平にある。

 以上で序論は終わりである。今回の内容の検討は、次回にまわすことにし、次回は、序論全体をまとめて検討したい。
差異と反復

*1:確かに、カントのいう直観的形式においては、この位置的相違は、そもそも概念的差異とはみなされない。しかし、ドゥルーズにおいて、それは外在的なものにも還元されないことは、以下の記述にもあるとおりである。―カントは、直観の諸形式に、概念のレヴェルには還元しえぬ外在的な諸差異を再認しているが、それらの差異は、それでもなお「内的」である。たとえ、それらの差異が、悟性によって「内在的」なものとしては特定されえず、また、空間全体に対する外的な関係のなかでしか、表象=再現前化されえないにしてもである。(p54)―では、カントのいう直観的形式は、外在的でも内在的でもないのか。端的に言えば、これは問いとして良い設定ではない。カント的な形式は実在を前提としたものであって、実在性を前提とするところの、経験論的かつ経験的な領域において議論を進めているドゥルーズとは前提を異にしているからである。それでも、あえて直観的形式をドゥルーズの議論の俎上にのせるとすれば、それは、内的なものから発生し、外在的なものと内在的なものを規定するものということになる。なお、実在と実在性の相違については、別の議論を要する。

*2:ドゥルーズが用いる現実的という言葉は、そのまま経験論的かつ経験的と言い換えてもよいだろう。