今回は、序論の総括としたい。まずは、序論全体の要約から。


序論の要約:
 反復と一般性は、3つの視点から区別することができる。
 ①行動の視点:一般性は、項の交換可能性ないし置換可能性によって定義されるが、反復は、項の交換不能性ないし置換不可能性に関わる。
 ②法則の視点:一般性は、法則のレベルに属しているが、反復は、法則の実現に関わる。
 ③概念の視点:一般性は、概念と対象の関係としての表象=再現前化においてあるが、反復は、表象=再現前化の限界においてある。
 しかし、反復を一般性の否定として記述するだけではなく、定立的に捉えなくてはならない。まず反復は、概念なき差異と定義される。反復には、裸の反復と、着衣の反復がある。裸の反復は、同じ概念のもとにある対象の反復であり、着衣の反復は、《理念(イデア)》における反復である。着衣の反復が、裸の反復をなす。一方、差異には、内在的差異、外在的差異と、それらに先立つ内的差異がある。内在的差異と外在的差異は、内的な連続的反復によって調和する。このように、差異の概念は、概念的差異に還元されるものではなく、反復の本質は、概念なき差異に還元されるものではない。差異と反復の関係を、最初から定立することはできないのである。


序論の総括:


経験論的かつ経験的なものとは何か


 では序論全体を振り返って、その内容を検討しよう。最初に、これまで私が用いてきた用語に関して、基本的事項を確認しておきたい。まず、経験論的形式と経験的なものについて。経験論的形式とは、形式化によって到達するひとつの形式であり、経験論的なものとは経験論的形式の領域である。一方、形式化の結果、形式化されたものとしての経験論的形式に対して、形式化されるものとしての経験的なものが見出される。そこには、経験的なものから経験論的形式がうまれ、経験論的形式が経験的なものを規定するという、経験論的形式と経験的なものの形式的関係が見出される。この経験論的形式と経験的なものの形式的関係は、決して両者の間でのみ成立するものではない。それは、現象学的形式によって規定されている*1。すなわち、経験論的形式と経験的なものの形式的関係は、あくまでも形式化の過程の後に見出される関係であって、形式化の過程なしに成立するものではない。

 さて、すでに指摘したように、ドゥルーズは、経験論的形式と経験的なものを区別していない。ただ、経験論的形式と経験的なものの形式的関係そのものについては、意識的である。よって経験論的形式と経験的なものは、ともに、経験論的かつ経験的な領域において把握され直すことになる。では、この経験論的かつ経験的な領域とはどのようなものであるか。経験論的形式は、あくまでも形式化によって到達するひとつの形式であって、それは単数でも複数でもないし、それ自体として実在性をもつものでもない。しかし、それが経験論的かつ経験的な領域において捉えられる際に、経験論的形式は、経験的な特性をもつものとして再規定される。とのとき、特定の系と諸系という区別が生じ、系の相互関係という認識が生じ、そして、そこに実在性をもつ系があるという認識が生ずる。こうして、経験論的かつ経験的な領域を背景として、実在性をもった系がそこにあり、それらの特性や相互関係を論ずる(以下、経験論的かつ経験的な領域において、実在性をもった系の特性や相互関係を論ずることを、系を操作する、と記述する)ことが可能となる。そして、この操作可能となった、諸系の総体、およびその特性が、一般性である。


 以上の、経験論的かつ経験的な領域を背景とした系の操作こそが、『差異と反復』序論を貫く前提であり、哲学的方法である。では、この経験論的かつ経験的な領域における系の操作という視点から、改めてドゥルーズの議論を再現してみよう。


序論は何を議論しているのか


 ドゥルーズは、まず一般性の領域から議論を始める。一般性とは、経験論的かつ経験的な領域を背景として、それを操作することが可能となった、諸系の総体、およびその特性である。一般性の領域において、行動とは、単一の系を一般的に規定するものであり、法則とは、系相互の関係を一般的に規定するものである。そして、経験論的形式としての系は、論理系と対象系からなるが、それらは一般性の領域において、概念と対象として再規定される。この概念と対象の結びつきが、表象=再現前化である。表象=再現前化において、概念が対象を規定するが、その逆はなく、対象においては実在性が前提とされる。

 さて、以上の一般性を否定するものとして、反復が提示される。このとき、表象=再現前化において、概念が一方的に対象を規定するのではなく、概念が何かによって規定されうることを例証するものが、阻止である。阻止には人為的阻止と自然的阻止がある。経験論的には、概念系と対象系の相互規定によって成立するところの論理学は、人為的阻止とされ、ここには反復は指摘されない。なぜなら論理学は、対象系における実在性を前提することなく成立するからである。一方、名目的概念、自然の概念、自由の概念において、自然的阻止が指摘され、ここに一般性の限界としての反復が指摘される。ここで指摘される反復とは、一般性の領域において、対象に前提された実在性に関わる形式である。こうして一般性を前提とする議論の限界を指摘するとき、ドゥルーズは、経験論的かつ経験的な領域を背景に議論をすすめており、一般性を相対化しうる視点に立っている。

 しかし、反復を、単に一般性の限界として否定的に記述するだけではなく、それそのものとして定立的に記述する必要があるとドゥルーズはいう。こうして、一般性の領域が、改めて経験論的かつ経験的な領域から記述しなおされる。一般性の領域において、系は、行動、法則、概念(表象=再現前化)によって規定されていたが、経験論的かつ経験的な領域において、それらは一般性に先立つところの、経験論的形式と経験的なものの形式的関係から再規定される。先に述べたように、経験論的形式と経験的なものの形式的関係とは、経験的なものの形式化によって経験論的形式に到達し、経験論的形式が経験的なものを規定するという関係のことである。そして、その関係の領域とは、経験論的形式を規定する地平であり、それは現象学的形式の領域である。これが《理念(イデア)》である。つまり、一般性の領域は、《理念(イデア)》によって規定されるものとして再規定されるのである。

 この再規定において、反復は、概念なき差異として定義される。それは、一般性の領域において、概念的差異、あるいは、概念に規定された対象における差異を生み出すものではなく、表象=再現前化なしに成立する項を生み出すものである。すなわち、反復とは、一般性の領域を、表象=再現前化に先立って規定するものである。よって、反復には2つのレベルがあり、《理念(イデア)》において系を規定するところの着衣の反復と、一般性の領域において諸系を規定するところの裸の反復である。すなわち、《理念(イデア)》における着衣の反復が、裸の反復をなし、裸の反復が一般性の領域をなすのである。

 一方、差異も同様に、経験論的かつ経験的な領域から再規定される。一般性の領域において、差異は、概念的な差異、つまり内在的差異と、概念によって規定された対象における差異、つまり外在的な空間的差異にわかれる。しかし、この一般性の領域に先立って、《理念(イデア)》における、内的差異がある。こうして、同じように《理念(イデア)》において一般性を規定するものとして、差異と反復が交わることになる。しかし、あくまでも差異の概念の探求と、反復の本質の探究の結果として、そこに交わりが見出されるのであって、はじめからそこに差異と反復の関係があるわけではない。


本論の前に


 以上が、ドゥルーズの議論の流れに従って、序論を整理したものである。要点をまとめれば、次のようになるだろう。

 一般性を、経験論的かつ経験的な領域において、現象学的形式の地平によって規定されるものとして再規定する。このとき、差異と反復は、一般性をなすものではなく、一般性に先立つ現象学的形式の地平にある。

 よって、この一般性に先立つ差異と反復の探求が、本論の主旨であろうと期待される。さて、その本論に進む前に、ありうべき2つの疑問を提示しておきたい。


①一般性は前提なのか
 序論は、唐突に一般性と反復の区別からはじまっている。それは、一般性を前提とする議論を、批判的に検討するためである。この一般性を前提とする議論とは、一般にヘーゲル主義と称されるものに他ならない。しかし、この一般性を前提とする議論なるものが、はたしてどこまで普遍的なのか。つまり、一般性を批判する文脈を共有することがはじめから求められているが、なぜ一般性を批判する必要があるのかが、少なくともこの序論においては不明である。
 確かに、批判の文脈は与えられている。それは「時代の雰囲気」であり、繰り返し言及される、ニーチェキルケゴールらの先行する哲学である。しかし、これらは、ドゥルーズがおかれた状況を説明するだけで、一般性を批判する哲学的探求の理由を説明するものではない。


②差異と反復の概念について
 裸の反復に先立つ着衣の反復も、内在的差異あるいは外在的差異に先立つ内的差異も、ともに《理念(イデア)》においてあることが指摘される。その一方で、差異と反復の関係は、最初から定立されるものではないと記されている。これは、《理念(イデア)》が、一般性の限界において見出されるものであり、《理念(イデア)》が一般性をつくりだすわけではないことを示唆している。
 つまり、本来的には一般的な領域において指摘されるものとしての差異と反復に、一般性に先立つ性質を指摘することが可能であり、両者は《理念(イデア)》において交わるのである*2。したがって《理念(イデア)》から、差異そのもの、あるいは反復そのものが生じ、それが能動的に一般性を形成するわけではないはずである。そうであれば、差異と反復の可能性は、《理念(イデア)》において、最初から定立可能なはずである。
 しかし、その一方で、ドゥルーズは、内的な連続的反復によって内在的差異と外在的差異が調和する、また、着衣の反復が裸の反復をなし、裸の反復が一般性をなすと記述している。これらは、《理念(イデア)》から反復あるいは差異が生み出されることを意味している。これは矛盾してはいないだろうか。


 以上は、序論を読めば、おのずと抱くであろう疑問である。つまり、①は一般性を批判する理由に関する疑問であり、②は一般性と、一般性に先立つ差異と反復との関係に関する疑問である。しかし、実際には、2つは同じ問題に収束する。それは、一般性の領域と、経験論的かつ経験的な領域との、形式的関係が明らかではないという問題である。当然ながら、この問題は、本論において解消されなくてはならない。あらかじめ述べておけば、これらは、単にその形式的関係を網羅するだけでは解消されない。現時点でドゥルーズが前提としている経験論的かつ経験的な領域を形式化すること、そして形式化の過程そのものを把握することにより、はじめて解消されるものである。もしこの問題が解消されなければ、それはそのままドゥルーズの哲学的能力の限界を意味する。本論は、この点に注目しながら読んでいくことになるだろう。


 しかし、はたしてそんなことのために、本を読む必要などあるのだろうか。
差異と反復

*1:この現象学的形式もまた、形式化によって見出される形式である。現象学的形式と経験論的形式の関係については、改めて論ずる。

*2:あくまでも反復とは同じ概念のもとにある2つの対象の反復であり、差異とは概念的な差異なのであるが、その一般性における規定を逃れるものとしての、差異の概念、反復の本質が、ともに《理念(イデア)》において指摘される、ということ。