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2.現実の形式化
2.2.現実の形式化


 以上の要約より、本書の主題は明らかとなる。それは、現在の社会は特定の交換様式によって規定されており、それを超えるためには、あらたな交換様式にもとづく社会の実現を目指さなくてはならない、というものである。他の思想史的、歴史的記述は、あくまでもこの主題の内容を補強するための傍証に過ぎない*1。すなわち、本書における柄谷行人の議論は、社会的現実を説明する、そしてそこから理念を導く、という2つの作業から成り立っている。前者を、現実の再構成、後者を理念の抽出とよぶことにしよう。

 現実の再構成とは、無秩序にみえる現実のなかから、変化しないものを見出し、そこに現実を還元することで、現実を秩序立てて説明する作業である。こうした作業によって、お互いの現実を共有できると、一般には信じられている。また理念の抽出とは、現実を再構成する過程で、現実的な諸問題において変化しないものを見出し、それを変更しうる方法を探り出す作業である。その方法は、既存の方法であるかもしれないし、新たに構成される方法かもしれない。いずれにせよ、こうして導かれる理念は、現時点においては実現されていないはずのものである。

 以上の、現実の再構成と理念の抽出という2つの作業は、ともに現実の形式化によって成立するものである。現実の形式化とは、現実を規定する形式を見出し、その形式に現実を還元する過程のことである。現実の再構成と理念の抽出という作業は、この現実の形式化の過程をなすとともに、その結果でもある。その意味では、本書で行われている作業は、最初から最後まで、現実の形式化に他ならない。しかし、実際には、その作業をよく検討するなら、柄谷による形式化は十分ではないことがわかる。たとえば、本書の議論の基本である交換様式だけをみても、次のような問題を指摘することができる。

①交換されるものが何であるのかがあいまいである。柄谷は、交換されるものは、たんに生産物とサービスであるといっているが*2、そもそもそれが何であるかについては明らかにしていない。

②交換をするものが何であるのかも不明である。商品交換が、市場に参入するもの相互の交換であるとしても、国家的再分配あるいはネーションにおける互酬が、何と何の間での交換なのかが不明である。

③交換の各々の様式は、あくまでも形式であって、そのいずれかが優位となる形式的な理由はないはずである。しかし柄谷の言う世界市場においては、商品交換が互酬と再分配に対して優位である。このとき、なぜ商品交換が、互酬、再分配に対して優位にあるのかが不明である。

④互酬、再分配、商品交換は現実的であり、交換様式Xは理念的であるという。その現実的な交換と、理念的な交換の形式的な相違が明らかではない。そしてその理念的な交換様式Xが、過去でも現在でもなく、将来において実現可能であるという理由が不明である。

 これらは、交換という形式が、十分に形式化されていないことを意味している。こうした問題は、交換に還元される現実が、社会的現実に限られるのか否かという問題にも関わるだろう。しかし、形式化が十分ではないからといって、直ちに本書の議論そのものや、理念に疑問を付すのは、あまりに早急である。そこで、以下では、本書で柄谷が用いている交換という形式を、その議論に沿って、形式的に再定義する作業を行う。すなわち、柄谷による現実の形式化をやり直す。その上で、本書における柄谷の議論を、もう一度見直すことにしよう。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

*1:たとえば、次のような記述を参照のこと。 私は以下の章で、「世界帝国」からはじめ、さらに「世界経済」に進みます。といっても、私は古代史や中世史を論じるつもりなのではありません。私がめざすのは、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することです。それは経験的な事実と対応しないわけではないが、私の関心事はそこにはありません。私が示したいのはあくまで、資本=ネーション=国家という環を出る方法です。p40

*2:以下参照。 これ(商品交換:引用者補足)は、たんなる生産物やサーヴィスの交換とは違います。商品交換はたしかに生産物・サーヴィスの交換でありますが、生産物・サーヴィスの交換がすべて商品交換だということにはならないからです。すでに述べたように、贈与−返礼という互酬(A)や略取−再分配(B)も、生産物・サーヴィスの交換です。ゆえに、交換が商品交換であるためには、それに固有の形式がなければならない。p65