以前もその記事について書いたことがあるので、ときどき萱野稔人交差する領域〜<政事>の思考〜を読んでいる。当人も、気楽なエッセイのつもりで書いているのだろうから、あまり細かいことに目くじらを立てるつもりはないのだが、少し気になったことがあるので指摘しておきたい。

 今回の記事で、萱野は「脱アイデンティティ」という思想界で共有されているスローガンを引き合いに出している。そして、実際に「脱アイデンティティ」的な状況に曝されている人たちの苦悩を前に、大学の研究者が「脱アイデンティティ」のすすめを語るのはおめでたいことだ、という。もっと現実的で、具体的な問題に対処する発想が、思想界には必要なのだ、と。

 いまの思想界には、研究者の自意識を満足させるだけで、現実を理論的に説明したり、具体的な問題に対処したりすることにはあまり役立たない発想がけっこうある。たとえば「国家を超える」ということを当たり前のようにいう研究者はあり余るほどいるが、国家を超えるとは実際にはどういうことなのか、そもそも国家とは何なのか、ということをまともに議論できる人はほとんどいない。しかし、そうした発想でもいったん定着してしまうと、既定路線として無批判に再生産されてしまうのが実状だ。いまの思想界で「常識」とされている考えのいくつかは根本的に見直されなくてはならない。


 字義通りに読む限り、これは要するに、現在の思想は現実に即していないから、もっと具体的な問題に対応しうる理論を構築するべきだ、という主張である。もし、萱野が言いたいことがそのようなものだとすれば、これはマルクスによるヘーゲル批判以来、再三繰り返されてきたフレーズに他ならず、萱野の言葉を借りるなら、それこそあまりにも陳腐な常套句ではないだろうか。

 私は、哲学研究者である萱野と違って、臨床医に過ぎないから、日本のであれ欧米のであれ、思想界の状況というものについてよく知らない。南米やサブサハラのそれについては、存在すら聞いたことがない。それでも、おそらく萱野の批判が妥当な状況だろうことは、容易に想像がつく。学問と現実的問題の関係というものは、分野や国境を越えて、似たような問題を抱えているからだ。しかし、だから現実を理論化し、具体的問題に対処せよという主張には、こと哲学の領域については、容易に同意することはできない。

 言うまでもないことだが、地球上には、多くの困難な現実的問題がある。そして、それに直面するものたちの苦悩を少しでも和らげようとする取り組みがある。現にそれは諸科学の領域であり、個々の現実、個々の問題の生ずる局所において、解決の試みがなされている。個別の現実的問題を前に、大上段から包括的理念を語る試みはもはや無効である、というのがいわゆる「ポストモダン的」状況というものだろう。

 たとえば、日本国内の現実的問題に対して、個別に政治的、あるいは学的、言説的に問題解決が試みられる。ときには、いくつかの問題が横断的に語られることもあるだろう。しかし、若年者の雇用問題と医療過疎の問題を結びつけることには困難があるし、国外の問題とも共通項を見出そうとすると、それは包括的で抽象的な概念にしかならない。当たり前のことだが、日本の若年者の雇用問題への取り組みは、必ずしも他の先進諸国のそれとは同じでなく、ましてや途上国の貧困問題や、紛争問題、難民問題、地球規模の環境問題とは何も関係がないのである。もちろん、それはどの問題についてもいえることだ。

 私は、多くの小児が栄養失調や感染症で亡くなっている現実を前に、実存や社会を語るのはおめでたい、などとは決して言わない。先進国における実存・社会問題と、途上国における貧困の問題は比較のしようがない。むしろ、そんなものはお互い何も関係ない、というのが、「ポストモダン的」状況というものだ。各々の問題に対しては、各々の専門家なり興味を抱いた非専門家が個別に対応すべきことであって、両者をひとつの問題として結びつける必要はない。そんなことをしても、各々の問題の解決には、何の足しにもならないのである。ついでに言えば、かつてサルトルが言ったらしい「飢えた子を前に、文学に何ができるか」といった言葉も、現状においては、なんら批判として機能しないだろう。より現実的なものをもって、より本質的なものであるという思考そのものが、無効なのである。

 萱野の話にもどれば、彼が経済的先進国、あるいはもっと限定的に日本の若い世代の雇用問題の専門家として活動するというのであれば、それはたいへん重要なことであるし、その目論見を否定するつもりはない。しかし、それならそれで、学術としては経済学、社会学、心理学的に理論化し、実践としては政治的に活動すべきことである。特定の地域の、特定の問題を、哲学に結び付けようとしても、抽象的な観念論を廃して現実的な唯物論へ、というスローガンを掲げたマルクス主義者の末路と同様に、結局は観念論への道をたどるだけだ。

 もし、現実が本当に「ポストモダン的」状況になっているのだとすれば、哲学に社会的現実に関わる余地などないのである。その意味では、ひところさかんに言われた「(現実に関わる)哲学は終わった」という言説は正しい。あとは、各々が諸科学のいくつかの領域を最大限に活用しながら、局所において対応を繰り返すべきことである。思想は現実に対処するべきだ、という萱野の主張が、諸科学に取り組むもののあり方のことを言っているのであれば、私も同意しよう。しかし、もしそれが哲学のことを指しているのであれば、それこそ「ポストモダン的」現実を見ていないといわざるを得ない。