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4.形式的唯物論の完成
4.3.形式的唯物論とは何か(2)


 以上に描いた哲学史を踏まえて、もう一度、柄谷行人の議論を見直してみよう。4.1.節(http://d.hatena.ne.jp/innhatrang/20070402)で検討したように、『世界共和国へ』の議論は、形式的に定義される4つの交換様式と、3つの前提によって構成されている。

社会体制 交換様式 主体的に再構成された交換の主体 物質的に再構成された交換の対象
ネーション 互酬 宗教と民族 貨幣と商品を含む物質的形式
国家 再分配 国家と国民 貨幣と商品を含む物質的形式
資本主義 商品交換 資本と労働者 貨幣と商品
アソシエーション 交換様式X (主体的に再構成された社会的主体) (物質的に再構成された社会的物質)

(表2.)各社会体制と交換(4.1.節より再掲)


<前提1>現実は物質的形式から成立する
<前提2>社会体制は物質的形式の地平上に成立する交換の主体に還元される
<前提3>社会体制の形式化の過程が歴史である


 まず、柄谷の定義する主体についてみてみる。柄谷にとって、主体とは形式的に定義される社会的主体ではなく、あくまでも交換の主体である(<前提2>)。それは互酬、再分配、商品交換という3つの交換様式に還元された主体であって、それそのものとして形式的に成立するのではない。つまり、交換の成立に先立って定義された主体が、まさしく主体的に3つの交換様式によって対象を交換するのではなく、物質的形式を対象とする交換の3つの様式の成立の結果として、その主体がある。つまり、この主体は、宗教/民族、国家/国民、資本/労働者のいずれでもありえる。しかし、そのいずれでもありうるという意味において、形式的にはいずれでもない。そこには、これら3つの交換様式の主体の統括がある。

 では、この交換様式の主体の統括はどのようになされるのか。ここで参照されるのがカントである。柄谷は、カントが感性と悟性の対立を想像力によって結んだことを指摘して、3つの相互関係をボロメオの環とよぶ。そしてこれが資本、国家、ネーションの3つの結びつきと同型であるという。

私は最初に、いわゆるネーション=ステートとは、資本=ネーション=国家であるとのべました。それは、いわば、市民社会市場経済(感性)と国家(悟性)がネーション(想像力)によって結ばれているということです。これらはいわば、ボロメオの環をなします。つまり、どれかひとつをとると、壊れてしまうような環です。
『世界共和国へ』p175


 この指摘は、柄谷の形式的唯物論を理解するに当たって重要である。ここでいわれていることは、決して、市場経済、国家、ネーションが、そのまま感性、悟性、ネーションであるということではない。ただ、それぞれの相互関係において、両者は同一であるということである。これは柄谷が、カント的な主観の構造と、社会的地平から構成される諸形式とを、相互に形式的に比較しうる地平に立っていること、そして両者(主観の構造と社会的地平の諸形式)が相互に統括していると考えていることを示している。

 ここで、議論を運びやすくするために、すでに形式的に定義された社会的地平に対して、主観的地平というものを定義しておきたい。社会的地平が特定可能な主体と対象という形式的地平であるのに対して、主観的地平とは、特定不可能な主体と対象における形式的地平である。両者を分けるのは、特定可能性である。言い換えれば、社会的地平が主体と対象についての地平であるのに対して、主観的地平は主体と対象においての地平である。


 7.1. 主観的地平とは、特定不可能な主体と対象における形式的地平である。


 本書に先行する『トランスクリティーク』第1部のカント論で、柄谷はデカルト以降の哲学者の言葉を引用しながら、カントの言う物自体とは他者である、というテーゼを繰り返している。結論から言えば、ここで物自体という言葉で語られているのは主観的地平のことであり、他者という言葉で語られているのは社会的地平のことである。柄谷のいう他者とは、主観と何ら認識を共有しない絶対的他者のことである。ただし、単に絶対的他者というものを設定しただけでは、それは絶対的に何ものでもないから、単にそんなものはないとして片付いてしまうだろう。このテーゼが哲学的に意義をもつのは、主観相互の関係などというものが、絶対的に不可能な問いであるにもかかわらず、現にそこに社会性が成立しているという事実がある、という視点をとるからである。その視点をとる限りにおいて、主観相互の関係に、絶対的に不可能なものとしての社会性が導入される。それは同時に、社会性に絶対的に不可能なものとしての主観を導入することにもなる。こうして主観的地平における認識の問題と、社会的地平の問題とは、相互に移行可能なものとなるだろう。つまり複数の主観の対立は社会的地平において、複数の主体の対立は主観的地平において解消されるのだ。これは、主観相互、主体相互、主観と主体の対立を解消させることを課題としてきた、20世紀的思想が採用する典型的なロジックである。

 では、この主観的地平と社会的地平が相互に移行するところのものとは何なのか。すでにみたように、柄谷において社会的地平をなしているのは物質的形式である。一方で、今回検討したように、主観的地平を統括するのは物自体である。ただし、この主観的地平における物自体とは、カントの物自体とは異なる。それは柄谷が言うところの他者であり、社会的地平に移行しうるものである。あるいは哲学史的に言えば、マルクスによるヘーゲルの転倒を経た形式的な(現象学的な)物自体であり、実在性とよぶべきものである*1。すなわち柄谷においては、主観的地平と社会的地平は、実在性と物質的形式の一致において相互に移行する。言い換えれば、実在性=物質的形式が主観的地平と社会的地平を統括する。こうしてすべての現実は、実在性=物質的形式の地平に還元されるものの運動、あるいは主観的地平に還元されるものと社会的地平に還元されるものの相互規定に還元される。これが形式的唯物論であり、そして、柄谷自身がトランスクリティークとよぶ思想的態度に他ならない。

*1:私は、実在と実在性という言葉を使い分けていることに注意されたい。カントにおける物自体は、いかに柄谷が哲学史的に解釈しなおそうと、哲学的には実在なのであり、たとえばハイデガーの存在の実在性とは決定的に異なるのである。