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4.形式的唯物論の完成
4.5.形式的唯物論とは何か(4)


 『世界共和国へ』において柄谷行人は、現実を互酬、再分配、商品交換に基づく資本=ネーション=国家に還元したうえで、最後に交換様式Xにもとづくアソシエーションの実現を理念として語っている。確かに3つの交換様式および資本=ネーション=国家の分析に比して、理念そのものに関する記述はきわめて少ない。しかし現実の還元に際して、そのつど交換様式Xおよびアソシエーションが対比的に参照されているから、本書全体としてみれば、柄谷がいう理念が何を意味しているかは明確である。

アソシエーショニズムは、商品交換の原理が存在するような都市的空間で、国家や共同体の拘束を斥けるとともに、共同体にあった互酬性を高次元で取りかえそうとする運動です。それは先にのべたように、自由の互酬性(相互性)を実現することです。つまり、カント的にいえば、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」ような社会を実現することです。
『世界共和国へ』p179

社会主義とは互酬的交換を高次元でとりかえすことにある。そしてそれは、分配的正義、つまり、再分配によって富の交換を解消することではなく、そもそも富の格差が生じないような交換システムを実現することであるのです。
同p182

 すなわち、交換様式Xは富の格差が生じない交換システムであり、アソシエーションは国家と資本(資本=ネーション=国家)を揚棄するものである。これより第3章(http://d.hatena.ne.jp/innhatrang/20070324)で交換様式Xは、社会的主体による社会的物質を対象とする交換として再定義された。それぞれの主体と対象が社会的主体と社会的物質から再構成される互酬、再分配、商品交換に対して、交換様式Xは形式的に先立っている。

 ここで重要なことは、交換様式Xが交換という形式そのものではないということである。交換様式Xはあくまでも交換のひとつであって、互酬、再分配、商品交換は、交換様式Xの種類ではない。なぜ、この点が重要なのか。それは3つの交換様式と交換様式Xのあいだには、現実が還元されるか否かという相違があるからである。現実は前者に還元されるが、後者には還元されない*1。もし交換様式Xが交換様式そのものであるなら、還元された現実、すなわち資本=ネーション=国家においてアソシエーションはすでに実現していることになる。これでは柄谷の議論とは矛盾する。

 では、交換様式Xを他の3つの交換様式と区別する形式的理由は何であるのか。すでにみたように、3つの交換様式の対象は物質的形式であり、その主体は物質的形式に規定される交換の主体である。よって現実を実在性=物質的形式の地平に還元する形式的唯物論においては、社会的主体から構成される主体的諸形式は、3つの交換様式の主体として最終的に物質的形式の地平に還元される。しかし交換様式Xはこれにあてはまらない。柄谷によれば、交換様式Xの実現としてのアソシエーションは、資本=ネーション=国家の消滅である。これは3つの交換様式の主体と対象、すなわち物質的に再構成された交換の対象と、物質的形式に規定される交換の主体の消滅にほかならない。このとき交換の主体と交換の対象の関係は、たとえそれがあるとしても、もはや実在性=物質的形式の地平にはない。交換様式Xは、形式的唯物論の地平である実在性=物質的形式の地平に、形式的にただ先立っている。この形式的唯物論に先立つところのものとは、すでに述べた非主体的実存=現象学的形式の地平である。

 このように、3つの交換様式と交換様式Xの相違は、そのまま実在性=物質的形式の地平と非主体的実存=現象学的形式の地平の相違に対応している。では確かにそれらが区別されているとして、なぜ前者が現在の現実であり、後者、すなわち交換様式Xにもとづくアソシエーションが未来の理念なのか。実はこれを説明しうる形式的な理由はない。すでに本章第1節で指摘したことだが、ここにあるのは形式的唯物論を支える3つの前提、すなわち<前提1>現実は物質的形式から成立する<前提2>社会体制は物質的形式の地平上に成立する交換の主体に還元される<前提3>社会体制の形式化の過程が歴史である、であり、その特に<前提1><前提3>である。これらの前提を採用する限りにおいて、現実は実在性=物質的形式の地平に還元され、より形式的な非主体的実存=現象学的形式の地平は、現在よりも歴史的に先にあるところの未来に実現されるものと位置づけられうる。それを採用しないならば、現実と理念を区別することはできない。

 では、そもそもなぜこれらの前提が採用されなくてはならならないのか。これについて、例えば<前提3>に関わる柄谷自身の記述を参照しよう。柄谷は次のように記し、『世界共和国へ』は歴史的順序に従って構成されているが、それは各交換様式相互の連関を「超越論的に」解明するための手段に過ぎず、その歴史的記述構成に必然性はないかのように述べている。

私は以下の章で、「世界帝国」からはじめ、さらに「世界経済」に進みます。といっても、私は古代史や中世史を論じるつもりなのではありません。私がめざすのは、複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明することです。それは経験的な事実と対応しないわけではないが、私の関心事はそこにはありません。私が示したいのはあくまで、資本=ネーション=国家という環を出る方法です。
『世界共和国へ』p40。

 しかし、記述の構成がどうであれ、実際には交換様式相互の連関が歴史的過程と結びつくという前提なしに、形式的唯物論は現実を分析し理念を導くことはできない。歴史的過程は現実と理念を記述するための一手段などではなく、現実と理念の成立に必要な条件なのである。それでも歴史的過程を記述構成とともに議論の背景に追いやろうとするところに、柄谷が、社会体制の形式化の過程が歴史であるという、いわば根拠のない前提を、自覚していないか、自覚しているとすれば隠そうとしていることがみてとれる。このように形式的唯物論の諸前提は、柄谷にとっても無条件の前提であるから、それらを採用する理由を柄谷自身の記述の中に見出すことはできない。それを明らかにすることが、本論の最後の課題となる。


 ここまでの議論をまとめておきたい。第3章での交換の形式的再定義に基づき、本章では柄谷の思考の基幹をなす形式的唯物論が何であるかを明らかにした。形式的唯物論は、現実を実在性=物質的形式の地平に還元し、3つの交換様式にもとづく資本=ネーション=国家として現実を再構成する。一方で形式的唯物論は、その現実の地平を形式化し、交換様式Xにもとづくアソシエーションを理念とする。この理念とは、非主体的実存=現象学的形式の地平である。その意味で形式的唯物論は、まさに20世紀的思想の達成のうえに成立している。

 しかし、現実を実在性=物質的形式の地平に還元し、理念を非主体的実存=現象学的形式の地平に見出すことそのものに形式的理由はない。この現実と理念の関係を支えているのは、形式的唯物論の3つの前提である。では、なぜこれらの前提が採用されなくてはならないのか。

 最終章となる次章では、『世界共和国へ』の内容を踏まえながら、形式的唯物論の諸前提と、柄谷の語る理念について論じたい。

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

*1:以下参照。「(さらに、私は、)この3つのタイプの交換のほかに、もうひとつの交換様式をXとしてあげておきます。これは現実に存在しているわけではないが、つねに理念としてありつづけるような形態です。」(p23)。