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 ヒトゲノム・プロジェクトは、すでにヒトゲノムの全塩基配列を解読し、その機能を解析する段階となっている。これにより、遺伝子治療をはじめとするオーダーメイド治療の可能性が期待されている。しかしその実現の前に、ひとつの素朴な疑問を解決しなくてはならない。それは、生体高分子は生命体か物質かという問題である。

 われわれは、50年前のワトソン=クリックによるDNA2重らせん構造発見の衝撃以来、その塩基配列にばかり眼を向けてきた。そして単純な記号の羅列で記述できる塩基配列と、計算機で再現された3次元構造を前に、DNAは単なる物質の塊であると信じて疑わなかった。しかしDNAの塩基配列は、あくまでもDNAの構造の一部にすぎない。それにその構造が計算機で再現できるというだけで、DNAが物質であると結論することはできない。むしろ、DNAやRNAに限らず、細胞を構成している蛋白質、多糖類、脂質などの生体高分子について、これら自身が生命体であると考えることは決して不自然なことではない。これらは自律した個体で、自身で運動し、細胞内外を移動し、相互に産出することが知られている。この事実は、生体高分子が物質ではなく、生命体であることを示唆してはいないか。

 かつて17世紀にロバート・フックは、コルク切片の顕微鏡像に小さな部屋をみつけ、細胞と名づけた。しかしそれが生物の単位であること、つまり細胞自身が生命体であると認識されるまでに、実に200年もの年月を要している。構造だけをみて、それを物質であると言い切ることはできないのである。いかに生命科学の技術が進歩したとはいえ、生体高分子が実際に細胞内で動いている姿を、同時的かつ動的に観察することは難しい。すなわち現在の生体高分子の構造解析が、「死体解剖」でしかない可能性を否定できないのである。少なくとも、現時点でそれらを物質であると言い切る根拠はない。

 わたしはヒトゲノム・プロジェクトによって得られる膨大なゲノム情報が、臨床的に有用である可能性を否定しない。たとえ生体高分子が生命体であったとしても、その構造と機能には関係があるはずだからである。しかしすでに述べたように、DNAの塩基配列はあくまでも生体高分子の構造の一部にすぎない。その情報が細胞内における生体高分子の相互関係を決めるとしても、生体高分子の集積体である細胞の構造が決まるわけではない。ましてや、それが細胞の集積体である臓器の機能に関係するまでには、ずいぶん距離がある。この距離、つまりDNAの塩基配列と臓器の機能の間を結ぶ理論を考えなければ、ヒトゲノム・プロジェクトの成果が臨床現場に到達することは難しい。そしてその理論の性質は、生体高分子が生命体であるか物質であるかによって大きく変わってくる。

 生体高分子は生命体なのか、物質なのか、あるいはそのどちらでもない何かなのか。巨大な国際プロジェクトの達成を具体的なものにするためにも、この問題を単なる興味の対象としてではなく、学術的にも臨床的にも重要な課題として取り組むべきである。わたしの考えでは、問題解決の鍵は、細胞内における生体高分子の同時的かつ動的な観察の実現にある。