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 今日は『方法の問題』第2章。


要約
 現在のマルクス主義は観念論的で、現実の人間を見失っている。マルクス主義は、個人の経験を分析する精神分析学、生産関係と政治構造を分析する社会学を取り入れる必要がある。
 人間の間には人間と現実的な諸関係しかない。共同体の内部における物質の希少性が、人間の相互関係を条件付けている。集団はそのものとしてあるのではなく、集団を構成するところの集団的存在として実在性をもつ。人間は労働と生産によって集団的存在を供給し、集団的存在によって条件付けられている。

当代のマルクス主義者たちの自己欺瞞は、彼らが目的性による説明をふんだんに肌目あらく援用していることを表面に出さずに、しかも目的論的な解釈の便利さをとどめておくために、2つの概念を同時にもてあそぶことに存している。彼らは第2の概念を、すべての人の眼に歴史の機械論的解釈を映じさせるために援用する。そのとき目的は姿を消す。同時に彼らは、この活動がもたらす必然のしかし予見不可能な結果を、抜け目なく、人間活動の現実の目標んい変貌させるために第1の概念をも利用する。即ち、歴史の営為はその場その場によって暗黙のうちに目的によって(この目的とはしばしば予見できなかった結果にすぎない)定義されたり或いは無生物の世界を通して起こる物理的な運動の伝播に還元されたりする。矛盾であろうか。いや、自己欺瞞なのだ。
 『方法の問題:弁証法的理性批判序説』(平井啓之訳、人文書院)p60

ヴァレリーが1個のプチ・ブル・インテリであるということ、このことにはうたがいはない。しかし全てのプチ・ブル・インテリがヴァレリーであるわけではない。現代のマルクス主義の発見学としての不十分さはこの2つの言葉のうちにひそんでいる。(中略)ヴァレリーをプチ・ブルと呼び、その作品を観念論的と呼ぶことによって、マルクス主義はそのいずれのうちにも、みずからそこに入れ込めたものだけを見出すことになるだろう。
 同p67-68

人間は、自分の生産物の生産物であり、自分の労働と生産の社会的条件とによって形成され、それと同時に、自己の生産物のさ中に存在し、自分を浸蝕する<集団的存在>の実体を供給している。
 同p88


コメント 
 現在のマルクス主義を批判しつつ、「本来の」マルクスの哲学をも大胆に書き換えようとする意図はみえる。しかし大半は無駄な記述である。