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 続いて『方法の問題』第3章。

要約
 人間が歴史をつくる。このとき人間には先行する現実の諸条件があるが、それを乗り越える。これが投企であり実践である。個人は自己を客観化し、与えられた条件を可能性に向かって乗り越え、実現することで歴史に貢献する。このすべての過程が全体化である。投企にかんする3つのポイント。1.現実の条件には、物質的条件のみならず、個人的経験も含まれる。2.投企はつねに実践的な用具に関係する。3.人間は投企によって定義される。

人間は先行する現実の諸条件(その数のうちには、後天的諸性格、労働と生活の様式によって押しつけられた歪曲、自己疎外、その他を数えねばならない)の基盤のうえに歴史をつくるものであるが、しかしその歴史をつくるものは彼ら人間であり先行する諸条件ではない。(中略)たしかにこれらの条件は存在するし、お互いにはなればなれな変化にひとつの方向と物質的現実性を賦与できるのはこれらの条件に他ならず、これらの条件だけである。しかし人間の実践の運動はこれらの条件を保有しながらそれをのりこえて行くものなのである。
p100

実践とは結局、内面化を通っての客観的なものから客観的なものへの移り行きである。客観性から客観性へと向う主観的のりこえとしての投企は、環境の客観的諸条件と可能性の分野の客観的構造の間にまたがって、それ自体のうちに、主観性と客観性という、活動の主要な決定因の動的な一体化をあらわしている。主観的なものはそのとき客観的過程の必然の一契機としてあらわれる。
p108

世界は外部にある。個人の内部にその神経組織によって記しとどめられた記号として言語や文化があるのではない。個人こそ文化や言語のなかに、すなわち用具の分野の特定の一部分のなかに存在する。
p123

フローベールは、彼が書くことを選択したことによって、彼の幼少期の死の恐怖の意味をわれわれに明かすのであって、その逆ではない。以上の原理を見そこなったために、現代のマルクス主義は意味と価値とを理解することを止めてしまったのである。なぜならば、一つの対象の意味をその対象自体のもつ純粋の物質性に還元することは、権利を事実から演繹すると同じように不条理なことであるから。
p157

コメント
 サルトルのいう弁証法と、ヘーゲルおよびマルクスのそれとの相違を明確にする必要がある。サルトル弁証法は、内的弁証法と外的弁証法の人間における統一である。