これまで、私は繰り返し萱野稔人の国家論を論じてきた(「国家・国境・領土」について)。いずれも批判的な内容だが、決してその議論そのものを否定したかったわけではない。くだらないと思うなら、はじめからとりあげたりはしないだろう。ただ、そこで展開される理論の、内容よりむしろその理論構造そのものに、どうにも違和感があって仕方がなかったのである。しかし、久しぶりに彼のブログ(「交差する領域〜<政事>の思考〜」)を眺めていて、ようやくその違和感の原因がわかった。そして同時に、そこで展開されている議論の意義も理解することができた。今日はそれについて述べたい。


 まずは、同ブログの最新記事をみてみよう(「<権利>から社会をとらえるメリット」)。ここで萱野は、法、権利という観点から、国家の暴力独占を論じている。その要点は、国家は合法的暴力のみならず、何が合法か不法かを定める権利をも独占しており、そして国家はこの独占を、やはり合法的暴力によって守っている、ということである。すぐに気づくことだが、ここでの萱野の論調は以前とは微妙に変化している。例えば第5回(「国家・国境・領土3」)においては、

「合法的な暴力の独占」というのは、マックス・ウェーバーが国家を定義したときに着目した点だが、要するにそれは、社会のなかで国家だけが暴力をもちいることができるということを指している。

と述べられていたものが、今回は以下のように記されている。

合法的な暴力が国家によって独占されているといっても、なにもそれは国家以外のいかなる集団も個人も暴力を行使できないということではない。国家によって認められれば、私たちはその認められた範囲内で暴力を合法的にもちいることができる、つまり〈暴力への権利〉をもつ。

 文章だけを比べれば、「社会のなかで国家だけが暴力をもちいることができる」と「国家以外のいかなる集団も個人も暴力を行使できないということではない」は、どうみても両立するものではない。では、これは議論の修正であろうか。そうではない。なぜなら、両者の間で国家の原理、すなわち「合法的暴力の独占」は何も変わっていないからだ。要するにこれは、前者が独占する側を観察する視点に立っているのに対して、後者は独占される側を観察する視点に立っているという違いなのである。つまり、集団としての国家をみれば暴力を独占しているが、個人としてみれば独占される暴力とそうでない暴力がある、ということである。従来はなかったこの複眼的視点の導入が、萱野の論調を変化させているのだ。

 しかし、私がここで問題にしたいのは論調の変化などではない。この新たな視点の導入に注目するのには、別の理由がある。それは、これが、これまではっきりしなかった萱野の論点を明確にする鍵となるからである。どういうことか。萱野の「国家論」において、国家は暴力の独占により成立する。この国家の暴力は、同時に「私たち」(=国民)の暴力でもある。前者はそれを独占し、後者は独占されているが、上記のように、その相違は観察する視点の相違である。よって暴力は、独占を観察する視点に先立って、国家のものでも国民のものでもなく、ただそこにある。このとき暴力は、いわば能動的に国家を成立させている(自己形成する)のであって、そこに「暴力の独占」なる概念はない。では「暴力の独占」とは何か。それは、暴力が自己形成した結果としての国家を観察する視点から可能となる、ひとつの記述なのである。

 これで明らかだろう。この「国家論」の視線の先にあるのは、実は国家ではないのだ。それは何よりも、まず暴力なのである。いうなれば萱野は国家を論じているのではなく、暴力を論ずることで国家を記述しているのである。結局、この「暴力論」を単なる「国家論」として読んでしまっていたことが、あるいはそう読まされていたことが、私の違和感の原因だったのである。萱野の議論は「国家論」である前にまず「暴力論」なのであり、そうあるべきなのだ。では、その「暴力論」とは具体的にどのようなものであるのか。以下で私は、実際に萱野の「国家論」から「暴力論」を再構築してみたい。そのためには暴力そのものの定義をはじめ、いくつかの定義を補う必要があるが、それは一連の議論を踏まえればさほど難しいことではない。


暴力論:暴力の基本原理

(1) (人間)個体の意思は、常に他の個体に向かっている。暴力とは個体が他の個体を用いて、その意思を実現する現実的な力である。このとき暴力は、意思を実現しうる力のなかで、最小の力であろうとする性質をもつ。

(2) 複数の暴力が相互に意思の実現を図るとき、暴力と暴力の間に相克が生ずる。暴力の相克は、ある暴力による意思の実現としてのみ終息するが、これは必然的に新たな相克をもたらす。これを暴力の連鎖という。暴力の連鎖によって、個々の意思が実現されていく。

(3) 暴力の連鎖は、いかなる目的ももたない。しかし、際限のない連鎖の拡散は、暴力の相克においてより大きな力を必要とする可能性がある。最小の力であろうとする暴力は、連鎖の始まりと終わりで連鎖を形成することで、連鎖の拡散を回避する。これを暴力の回帰という。

(4) 暴力の回帰において、回帰の連鎖を消滅させうる暴力は、連鎖を構成する暴力によって排除される。この暴力の回帰における自己排除を、暴力の自己組織化という。いかなる個体集団も暴力の自己組織化によって成立し、個体集団の境界は暴力の自己排除によって決定される。

(5) いかなる暴力の自己組織化にも、他の暴力の自己組織化によって吸収されるか、消滅させられる可能性がある。しかし、あらゆる他の暴力の自己組織化を吸収した結果、それ自身によって以外に消滅させられえない暴力の自己組織化がありえる。このような暴力の自己組織化によって成立する個体集団を、国家という。


 以上が「暴力論」の原理である。次にこの原理によりすでに成立した国家を観察する。このすでに成立した国家を観察するとき、国家を主語として記述することが可能となり、今度は暴力の機能が問題となる。その記述に際しては、集団を捉える視点(マクロレベル)と個体を捉える視点(ミクロレベル)とを区別する必要がある。


国家論:国家の観察

(1) ミクロレベルで暴力は、国家を維持している暴力と、国家を破壊しうるために排除される暴力に区別される。前者を合法的暴力、後者を不法的暴力という。このとき、国家は、この合法的暴力を独占し、不法的暴力を排除する機能をもつ。その機能を法という。

(2) ミクロレベルで個体は、合法的暴力を行使する側(意思を実現する側)と行使される側(意思の実現に用いられる側)に区別される。前者が国家的個体であり後者が国民的個体である。各個体にとって、国家的個体であることと国民的個体であることとは相対的なものであり、逆転可能である。しかし、その逆転は暴力の自己組織化の結果であって、個体の意思によるものではない。いかなる個体にも、合法的、不法的を問わず、暴力を行使することは可能である。しかし、不法的暴力の行使は、必然的に合法的暴力によって排除される。

(3) 国家を消滅させうる個体集団は、国家以外にはない。したがってマクロレベルでは、国家相互の関係には2つの可能性がある。国家と国家の関係において、暴力の自己組織化がひとつの国家の形成に向かうとき、これを戦争という。それぞれの暴力の自己排除によって決定される境界が一致し、2つの自己組織化が成立するとき、これを相互承認という。


 ひとまず、この程度のラフスケッチにとどめておこう。しかし、これですでに、以前に私が指摘した萱野の「国家論」の3つ問題点(「国家・国境・領土」についてを参照)は、ほぼ解決されたといっていい*1。そして何より萱野の議論の全体像がはっきりし、その思想史的な意義も明確になったはずだ。確かにこれは、ホッブス自然権自然法やルソーの社会契約論とは異なる、暴力の自己組織化を原理とする国家論である。その原理は、しばしば萱野が言及するドゥルーズ=ガタリの欲望機械の議論に近しいが、欲望ではなく暴力を第一原理にすえることで、国家の生成を資本主義のそれから明確に区別している。また、暴力の自己組織化から法、権利を導く議論は、法哲学的にも特異なものであろう。

 このように萱野の「国家論」は、さまざまな意味で興味深いものである。しかし、逆に言えば現在の議論では、こうしたことがまったく見えないのである。萱野は自らの議論をもういちど原理的に見直し、「暴力論」と「国家論」の相違を明確にするべきだ。特に現実的機能の記述においては、マクロレベルとミクロレベルとを混同しないようにするべきである。その着想および試み自体は十分に評価にたると思われるだけに、上記のことを建設的な提案として述べたい。

*1:細かいことは省略するが、以上の理論によっても、地理的境界としての国境がそこにあるという問題は、まだ解決されない。