先々月、私は、東浩紀氏と北田暁大氏が創刊する『思想地図』という新雑誌の論文公募に応募した。昨日、通知の手紙が届き、結果は不採用であった*1
 私の提出したアブストラクトは、東氏の課題(「日本語で思考することの意味を問う」)に対するもので、「トランスクリティークポストモダン」と題する柄谷行人論であった。内容は、ひとことでいえば、柄谷に代表されるところの「思考の読解としての批評」の批判である。これは、課題の問題設定   ローカルな思想かグローバルな思想かという問い   を議論の遡上に載せるもので、確かに、課題そのもの   日本語で思考することの意味   に直接的に答えるものではない。その意味では、東氏がこのアブストラクトに、自らの問いへの答えを見出せなかったとしても仕方がない。しかし、私は、この課題への有意義な応答はこれしかないと考えている。なぜなら、東氏の問いは、思考そのものではなく、思考のあり方を問うものであって、いかにも20世紀的な柄谷批評を反復するものだからである。そして、それに対する私の答えは、まず批評をやめること、すなわち、そのような問いそのものを破棄せよというものだ*2
 採用されなかった以上、他誌への投稿も考えたが、この論考はあくまでも東氏の課題に応えるものである。そこで私は、これからの数ヶ月間で、アブストラクトで予告した議論を展開し、それを草稿段階から随時公開してゆくことにする。そして最終的には、来春の『思想地図』刊行までに、ひとつの論稿として完成させようと思う。手始めに、応募したアブストラクトをそのまま公開する。
 これは同誌に掲載されるはずの論稿に対する、そして課題を出した東氏に対する、私の一方的な挑戦である。


 鈴木 基

*1:手紙には11月13日の日付が記されているが、通常のエアメールでは東京からベトナムの片田舎まで2週間以上かかるのである。応募をE-mailで受け付けるなら、結果の報告もE-mailでよいのではないか。

*2:ただし、批評自体を全否定するつもりはない。なぜなら、それは肯定する必要も、否定する必要もないからだ。これはいずれ論ずることになるだろう。