アブストラクト

仮タイトル:トランスクリティークポストモダン

全体の要旨:柄谷行人の批評が到達した倫理(トランスクリティーク)が、かつてサルトルが予告したそれであることを明らかにする。そしてこの倫理が、ポストモダン化する現実において、思想にローカルかグローバルかという二者択一を迫るものであることを指摘し、その限界を超えるために、批評的な思考からの切断を提案する。


1.はじめに
 1970年代以降、柄谷行人が日本の思潮に及ぼした影響は小さくない。しかし、あくまで批評家としてであって、哲学者としてではない。柄谷は、日本とアメリカの間、あるいは日本語と英語の間で思考してきた。もし、当人が言うように、哲学は共同体と共同体の間にはじまるのだとすれば、これほど哲学者としてふさわしい存在はないはずだ。なぜ、そうならなかったのか。

2.柄谷と批評
 柄谷の思考は、批評という方法と切り離すことができない。批評には、思考の読解と、切断という特徴がある。柄谷の論稿群は、2つの切断をはさんで3つの時期に分類することができる。

前期:『畏怖する人間』、『意味という病』、『マルクスその可能性の中心』、『日本近代文学の起源』、『隠喩としての建築』

 <切断I>

中期:『探究I』、『探究II』、『ヒューモアとしての唯物論

 <切断II>

後期:『倫理21』、『トランスクリティーク』、『世界共和国へ』

 このとき、<切断I>は形式化の徹底から他者と外部へ、<切断II>は共同体批判から倫理へ、と要約できる。では、そもそも柄谷はどこから何を目指して切断を繰り返してきたのか。ここで、われわれは前期と中期では全否定されるが、後期では一転して肯定されるサルトルに注目する。

3.サルトルの切断
 『存在と無』におけるサルトルの実存論的構造は、近代的主体の脱構築である。もはや絶対的な真理によって規定される主体などはない。われわれは絶対的自由のなかで、何かを選択し続け、自ら真理をつくり出すほかない。では実存は何を選択するのか、そもそも何かを選択すべきだといえるのか。サルトルは『存在と無』の結論の最後で、続く倫理の書を予告する。
 しかし、結局、それは書かれることなく、サルトルは『弁証法的理性批判』を著す。本書でサルトルは、個人の実存と社会のシステムを、弁証法のふたつの側面として結ぶ。すなわち実存論的構造と社会論的構造を、主体=弁証法的理性において接合する。哲学史的には、本書への構造主義者の批判が、サルトルを哲学の前線から引き摺りおろしたとされる。しかし、構造主義は、実存論的構造と社会論的構造の接合の仕方を問題にしたが、2つの構造の関係という問いは共有している。その意味で、構造主義サルトルの設定した問いに対する回答のひとつにすぎない。

4.倫理としてのトランスクリティーク
 柄谷の一連の思考の開始地点もまた『弁証法的理性批判』にある。つまり、柄谷の批評の<切断0>は、サルトルの『存在と無』から『弁証法的理性批判』への切断である。以下、サルトルから柄谷につながる切断の過程を、実存論的構造(意識と世界の関係)と社会論的構造(人間と物質の関係)の関係から捉えなおす。

1:サルトル存在と無
 世界の実在性を前提として、実存論的構造が成立する。人間と物質の関係は問われることなく、社会論的構造は構造として成立していない。

 <切断0>

2−A:サルトル弁証法的理性批判』
 実存論的構造と社会論的構造が区別される。この2つの構造は、意識=人間、世界=物質として統一される。

2−B :前期柄谷
 実存論的構造と社会論的構造という問いはそのままに、その統一が批判される。2つの構造の間にある偏差が指摘される。

 <切断I>

3:中期柄谷
 実存論的構造を規定する他者と、社会論的構造を規定する外部が見出される。そして、両者が生ずる「場所」と超越論的主観が論じられる。

 <切断II>

4:後期柄谷
 「場所」と超越論的主観の関係が超越論的構造として、実存論的構造と社会論的構造の他者と外部を介した関係が経験論的構造として再編成される。その結果、主観的(カント的)地平と社会的(マルクス的)地平の往還だけがあることになる。この往還をトランスクリティークという。

 そして柄谷は、トランスクリティカルであることを倫理とする。それは非主体的実存であれ、ということである。これは、かつてサルトルが『存在と無』で予告した倫理にほかならない。柄谷の一連の切断は、「人間は自由という刑に処せられている」から「自由であれ」への転倒の過程なのである。

5.批評から哲学へ
 かくて柄谷は、20世紀哲学の大きな課題を果たした。にもかかわらず、柄谷はサルトルのような哲学者たりえない。それは柄谷の批評の構成が、ポストモダンの現実と完全に一致しているからである。「カント的」科学技術と「マルクス的」資本主義が、近代的主体と共同体を形式化し、それ自体としてトランスクリティカルな運動を実現してゆく。この現実のなか、トランスクリティカルであれ、という柄谷の倫理は、ただ現状の追認として機能するだけである。
 現在、われわれの思考には、二者択一しかないようにみえる。局所でのみ機能するローカルな思想にアンガージュマンするか、それらを相対化する地平から諸思想を批評するグローバルな思想であるか。しかし、この二者択一じたいが、「この私」と他者、あるいは共同体と共同体の間でのみ思想は可能であるとする、トランスクリティークの問題設定のなかで成立している。ここから逃れようとするなら、われわれはまず、柄谷の倫理から<切断>すること、つまり批評的な思考をやめることから始めなくてはならない。