柄谷行人を読む(6)『畏怖する人間』

 このような指摘は重箱のすみをつつくようなもので、本質的な読解ではないと思われるかもしれません。しかし、私がここで細かな用語にこだわるのは、決してデビューしたての若手評論家の未熟さをあげつらうためではありません。この混乱にこそ、柄谷の思考の出発点を明らかにする鍵があると考えるからなのです。もちろんそれを解明する作業に取り掛かるにはまだ早すぎますが、少なくとも現時点でいえることは、この時点で柄谷は、およそ内面と外界に相当する2つの対立する概念の分裂と逆接については自覚していたものの、何と何が対立しているのかはまだ正確に理解していなかったということです。それが何を意味するのか、ここから柄谷の思考がどう変化していくのかについてはのちに明らかにします。ここでは読む対象を「意識と自然」以外の論稿にまで拡げて、内面と外界の逆接が何であるのかをもう少し追求しておくことにしましょう。

 あらためて『畏怖する人間』に収められた文章を注意深く読むと、本書が一貫してこの逆説を論じていること、そしてこの逆接は決して一元的なものではないことが確認できます。それは内面と外界の理想的な一致の否定なのですが、しかし両者の関係そのものが否定されているのではなく、それらは逃れられない対立ととらえられています。つまり、まず最初に心というものがあって、それが内側にあったり外側にあったりするのではなく、ただ内面であるか外界であるかのどちらかである以外にありえないものがあるということです。それが柄谷のいう「自然」です。しかし「自然」は、たんに内面と外界の中間にあるわけではありません。「意識と自然」ではまだはっきりと述べられていませんが、外界との関係としてあるほかない内面をつきつめたところにそれはあります。つまり内面をつきつめたところの《意識》が「自然」につながるのです。そして重要なことは、この「自然」が、内面とはまた異なる意味で、外界に対立するものとしてとらえられているということです。

ルソーにとって社会は個体の外側にある。が、漱石にとって、《社会》とは《意識》であり、自己自身に余計な桎梏を課する意識そのものにほかならない。
「内側から見た生」『畏怖する人間』、p101

吉本隆明のいう「個人」は、市民主義者が国家(社会)原理に対してたてる個人原理とは無縁である。そのような個人原理は社会の共同性と相補的なものにすぎないからだ。吉本隆明が「自立」(自由ではない)の根拠にすえているのは、個人原理ではなく「自然」である。そして、この「自然」によってしか、人間の社会(幻想)的存在を転倒する原理はありえない。
「心理を超えたものの影」『畏怖する人間』、p131-p132


 やはり用語が統一されていないのでわかりにくいのですが、ここで柄谷は外界に相当する社会(「」なし)に対して、内面をつきつめたところの《意識》と等しい《社会》(つまり「自然」)を対立させているのです。この認識は「内面への道と外界への道」においていっそう明確に述べられています。

(前略)私の考えでは「内面への道」とはいわば「外界への道」にほかならないのである。こういってよければ、デカルト以来の「方法的懐疑」は「内面への道」であり、したがって同様に「外界への道」でもあったのだ。
「内面への道と外界への道」『畏怖する人間』、p325


 すなわち内面と外界の対立は、たんに「内面/外界」としてあるのではありません。それは「外界/内面→《意識》=「自然」…外界/内面」という、いわば開いたループ構造をなしているのです。ではこの「自然」とはいったい何なのか。それについて柄谷は明確に定義していません。ただ次のような記述を見る限り、柄谷はそれを生の本質に相当するものとしてとらえていたことがわかるでしょう。

シェークスピアにこのとき視えていたのは、「規範」の秩序とその逆の「自然」*1の秩序とのクレヴァスにひろがる醜悪でグロテスクな存在そのものである。それは自意識の懐疑というより、もっと深いところで彼の生をおびやかしている危機感である。「表現することなどできない恐ろしいこと」とは、まさにそういう生そのものの危機にほかならない。
「意識と自然」『畏怖する人間』、p20


 私たちには内面であるか外界であるかしかない。しかしその生の本質は、内面にあるのでも外界にあるのでもない。それは外界と対立しつつもそれと関係するしかないところの内面をつきつめたところにある。これが『畏怖する人間』を貫くモチーフなのです。逆にいえば、本書で柄谷が論じているのはそのことだけだといっても過言ではないでしょう。

 最後に『畏怖する人間』に収められている論稿の特徴について付け加えておきます。その特徴とは、作品と作者がまったく同じ議論の枠組みで論じられていることです。例えば「意識と自然」において柄谷は、漱石の登場人物のありかたを論じながら、同時に漱石自身をそこに重ね合わせています。あたかも漱石もひとりの登場人物であるかのように読み解いているのです。

人間の心理、自意識の奇怪な動きは、深層心理学その他によっていまやわれわれには見えすいたものとなっている。だが、『こヽろ』の先生の「心」は見えすいたものであろうか。見えすいたものが今日のわれわれを引きつけるはずがないのだ。おそらく、漱石は人間の心理が見えすぎて困る自意識の持主だったが、そのゆえに見えない何ものかに畏怖する人間だったのである。
「意識と自然」『畏怖する人間』、p44


 ここで「畏怖する人間」とは、漱石の書いた「先生」のことであると同時に漱石自身のことを指しています。このようなやりかたは『畏怖する人間』のその他の文章も同様で、柄谷は江藤淳吉本隆明三島由紀夫らの小説、発言、評論と彼らの人生を同列に論じています。これは多少のスタイルの変更はあれ、後期の作品まで一貫してみられる柄谷の論稿の特徴です。もちろん小説の登場人物に作者の姿を重ねて読むだけなら、批評理論的には珍しいものではありません。しかし柄谷の場合には、これが後にたんなる方法論にとどまらない重要性を帯びてきます。ここではデビュー作の時点からこのようなスタイルがとられていたということだけ確認しておくことにしましょう。

 以上から読解のポイントをまとめると以下のようになります。


『畏怖する人間』の読解のポイント
(1) 内面と外界の分裂と、その逆接としての「自然」を論じている。
(2) 内面をつきつめたところに外界への道がある。
(3) しかし、内面と外界が何を指しているのかは明確でない。
(4) 作品と作者自身を同じレベルで読解の対象としている。


 次回は『意味という病』をとりあげます。


畏怖する人間 (講談社文芸文庫)

*1:この引用文中の「自然」は、《意識》=「自然」としてのそれではなく、本来は自然(「」なし)と記述されるべきものであることに注意されたい。