柄谷行人を読む(7)『意味という病』

 今回は『意味という病』をとりあげます。これは1975年に刊行された柄谷の第2評論集で、72年から74年に発表された論稿、エッセイが収められています。参照するのは、1989年発行の講談社文芸文庫版です。

 一般的には、この『意味という病』と前作の『畏怖する人間』との間に、大きな違いはないとみなされているようです。実際に両者は「初期」文芸評論作品としてひとまとめに扱われるか、本書が単独でとりあげられるとしても、続く『マルクスその可能性の中心』との比較で論じられる場合に限られる傾向にあります。すなわち、『マルクスその可能性の中心』との間に<切断>に相当するものが指摘されることはあっても、先立つ『畏怖する人間』との違いを指摘されることはほとんどありません*1。たしかに両者はともにいわゆる文芸作品をあつかった評論集であり、当時の一般的な文芸評論のスタイルを踏襲したものです。続く『マルクスその可能性の中心』のスタイルが従来の文芸評論のイメージを大きく覆すものであったことを考えあわせるなら、両者がひとくくりにされるのも理由がないことではありません。しかしあらためて丁寧に読んでみると、実際には両者の議論の間に無視できない違いがあることに気がつきます。確かに本書でも『畏怖する人間』と同様に、内面と外界の対立と「自然」というモチーフが繰り返されてはいるのですが、それらの関係が明らかに変化しているのです。

 もっとも、私はこの変化をことさら強調するつもりはありません。実際に本草稿では、最初に『意味という病』をその前後の作品も含めてすべて前期に相当するものと分類しました。その意味ではこの『畏怖する人間』と『意味という病』の間にある変化を、私は<切断>とは考えていません。しかし、そこに違いがあるのは確かなのですから、もし本書と『マルクスその可能性の中心』の間に違いを指摘するのであれば、それと同様に『畏怖する人間』と本書の違いを明確にしておく必要はあるでしょう。今回はそのあたりのことに注意しながら、本書に収められた論稿のうち、もっとも有名でかつよくまとまっている「マクベス論」を中心に読解作業をすすめたい思います。


要約:「マクベス   意味に憑かれた人間」

  • シェークスピアは自然をありのままに映し出そうとしたが、その自然とは精神という「自然」のことである。シェークスピアは『マクベス』において、徹底して精神を「自然」としてみた。マクベスの生を語ることが、シェークスピアを語ることである。
  • 魔女に「必ず王になる」と予言されたマクベスは、メランコリーに陥る。何をやってもやらなくても同じだという観念にとらわれたマクベスは現実感を喪失し、王になりたいわけではないが現状から抜け出すために王になろうとする。
  • 絶えず「夫婦」を確証しようとするマクベス夫人は、マクベスに王になるようそそのかす。しかし夫人は突然夢遊病者として現れる。それは自己を自己として統一するものの喪失である。
  • マクベスは「子孫が王になる」と予言されたバンクォーを殺害する。しかし、バンクォーの亡霊が現れる。それはマクベスが殺そうとしたのはバンクォーではなく必然性だったのであり、バンクォーが死んでも必然性は死なないからだ。
  • マクベスを不安にさせたのは必然性であり運命である。しかしマクベスは最後に運命を拒絶する。マクベスは運命と戦ったのではなく、ただ運命を放棄したのである。


 この論稿で柄谷は、シェークスピアマクベス』のストーリーを大胆に読みかえていきます。魔女の予言に惑わされるマクベスマクベス夫人、バンクォーを、観念にとらわれたものという視点から解釈し直していくのです。柄谷は主人公のマクベスに、必然性の観念にとらわれ、そこから逃れんがためだけに王になろうとする姿を読み取ります。それが観念から逃れるための現実的な行動(ダンカンを殺害し、バンクォーを暗殺する)であるはずなのに、どうしてもマクベスは観念から逃れることができません。一方で夫婦という観念にとらわれたマクベス夫人は、その観念の中で自己崩壊してゆきます。そして最後にマクベスは、自らを倒しにきたマクダフを前に、ただ運命を放棄します。運命を受け入れるのも、運命に抵抗するのも、それは運命によって意味づけられることにほかならない。それは「悲劇」です。しかしマクベスは「悲劇」を拒絶するのです。そこにおいてマクベスは現実を取り戻すのであり、そしてその意味で『マクベス』は現実を描いているのです。


(続く)


意味という病 (講談社文芸文庫)

*1:例えば、この文庫版に収められた解説(すが秀実「「貧しさ」について」)においても、本書にはそれ以後の柄谷の「思考の原型が凝縮されている」とされ、『マルクスその可能性の中心』との関係から読み直す可能性について触れられているが、『畏怖する人間』との相違についてはまったく触れられていない。