柄谷行人を読む(19)『マルクスその可能性の中心』

 あらめてこの自己批判の構図を検討してみてみましょう。まず人間と物質は違うという現実があります。しかし、ただ単に違うというところにはいかなる関係もなく、社会の問いもありえません。社会の問いは、単に違っているだけの人間と物質の間に、何らかの関係が見出されるところにはじめて成り立つのです。このとき実存の問い(意識と世界の関係)も、そこで見出された人間と物質の関係から派生するものとして社会の問いに還元されます。こうしてすべてが物質=貨幣に還元され、理論としての社会の問いである「マルクス」の唯物論が成立することになります。一方でこれを解体し、人間と物質の違いとしての社会という現実を見出す(再発見する)ものがあります。それがカール・マルクスです。このとき、そこに「マルクス」とカール・マルクスを結びつけるものがある限り、社会実存はひとつの現実として一致することになるでしょう。これが本書で柄谷が描き出すカール・マルクスによる「マルクス」の自己批判です。

 こうみると明らかなように、本書においても、『意味という病』までの実存と社会の問いとそれに先立つ実存社会という基本的構図にかわりはありません。ただそれが、社会という現実から社会の問いという理論が構成され、それが再び実存によって解体され、社会実存が接続されるというひとつのサイクルとして描かれている点が異なっているのです。では、どうして「マルクス」を自己批判するカール・マルクスという、いっけんアクロバティックな議論を展開してまでこのようなサイクルを描かなくてはならなかったのでしょうか。それは「マルクス」とカール・マルクスを、すなわち理論と現実を一致させる過程が必要だったからです。

 『意味という病』の読解で明らかにしたように、前期の柄谷は実存の問い(=実存主義)と社会の問い(=マルクス主義)の対立に対して、実存社会という現実を見出します。このとき柄谷は、実存と社会の対立が、実は理論と現実の隔たりから派生するものであることに気づいています。したがって両者の対立を無化するには、まず理論と現実の隔たりを解消しなくてはなりません。そこで本書『マルクスその可能性の中心』において、柄谷は理論としての「マルクス」と現実としてのカール・マルクスを同一の地平にのせることで、その隔たりを解消しようとしたのです。

 ではその理論と現実の隔たりを解消する地平とは何でしょうか。それは言明の地平です。それが言明あるいはテクストである限りにおいて、「マルクス」とカール・マルクスはともに読解の対象として(「可能性の中心」において)一致するのです。このとき理論と現実の隔たりは、言明における概念と差異の隔たりへと変換されます。本書の最後で、いささか唐突に言語における概念と差異の問題が提起されるのはそのためです。つまり、本書は『意味という病』までの議論の構図を、言語の問題に置き換える過程であると言えるでしょう。

 ではこの言語の問題、つまり言明における概念と差異の隔たりはどのようにして解消されていくのでしょうか。それを明らかにするには、さらに読解を続けなくてはなりません。


マルクスその可能性の中心』の読解のポイント
(1) 概念に先立つ差異を見出すのが「可能性の中心」において読むことである。
(2) 唯物論者「マルクス」をカール・マルクス自己批判するという構図で議論が成り立っている。
(3) 現実の社会から理論としての社会の問いが成立し、現実の実存がそれを解体する過程が描かれている。
(4) 理論と現実の隔たりが、言明の地平における概念と差異の隔たりに変換されている。


 次回は『日本近代文学の起源』です。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)