柄谷行人を読む(18)『マルクスその可能性の中心』

 したがって柄谷がいう「貨幣の形而上学」批判は、貨幣じたいに向けられたものではありません。貨幣とは、人間と物質のもろもろの関係をすべて物質に還元する唯物論の結果として生み出されたものだからです。その批判は貨幣を生み出すもの、つまりは唯物論を強いているものに向けられているのです。

 ここでようやく、先にあげた疑問を解くことができます。それは「貨幣の形而上学」批判は、経済哲学者ではなく貨幣を使っている私たちに向けられるべきものではないか、というものでした。もちろん、答えは否です。いまみたように「貨幣の形而上学」批判は、唯物論を強いているものへの批判です。そして、唯物論を強いているのは、経済哲学者でも、あるいは貨幣を使っている私たちでもありません。なぜそういえるのか。ここで唯物論そのものは、人間と物質の関係ではないことに注意しましょう。唯物論とは意識と世界の関係にあるものであり、意識が世界を認識する枠組みのことです。その枠組みを、そのまま人間(経済哲学者、私たち)に還元することは、人間が貨幣を生み出していることにすることであり、人間と物質の関係をすべて人間に還元することにほかなりません。それは結局、貨幣(物質)の形而上学ならぬ人間の形而上学であり、まさに柄谷が批判しているところのものです。

マルクスはのちにいう。類的人間的本質なるものはありはしない。それは「社会的諸関係の総体」にすぎないと。それは、「人間」という概念は、「関係」を隠蔽するのだ、ということである。
同書、p121。

マルクスが「身体的組織と、この身体的組織によって与えられる自然との関係」を、歴史の第一前提とするとき、注目すべきは、この「関係」という概念である。つまり、「人間と自然との関係」は、ある欠如=遅延化によって生じるような「関係」なのであり、実はそれだけが「関係」なのである。
同書、p125。


 では、唯物論を強いているのが人間でも物質でもないとすれば、それはいったい何なのでしょうか。ここで本書のもうひとつの議論を思い出す必要があるでしょう。「マルクスの価値形態論」に続く後半部分で、柄谷はマルクスの個人史をたどり、テクストの読解というマルクスの態度を、カール・マルクスという人物の地理的移動に結びつけて論じています。そして「マルクスの価値形態論」はテクストの読解にほかならないとしています。これまでみてきたように「マルクスの価値形態論」とは、人間と物質の関係を覆い隠す貨幣に対して、人間と物質のもろもろの関係をみなくてはならないと主張するものです。つまり柄谷によれば、カール・マルクスという個人の生が、人間と物質の関係を物質に還元する唯物論を批判しているのです。では、そこでカール・マルクスに対して唯物論を強いているのは何なのか。あくまで本書の議論の内容を見る限り、最終的にその答えは明らかにされていません。しかし、本書をひとつの完結した書物としてみるなら、それが何を指しているかは明らかでしょう。カール・マルクス唯物論を強いているもの、それはマルクス本人にほかなりません。正確には、マルクス主義者であり唯物論者である「マルクス」です。

 もちろん柄谷は、マルクスマルクス主義者ではないと繰り返し述べています。ただ事実として唯物論者「マルクス」がいなければ、それを「可能性の中心」において読む必要もなかったでしょう。つまり柄谷は本書で、「マルクス」を批判するカール・マルクスという人物を描いているのです。しかもそれは、「マルクス」の「マルクス」たるゆえんともいうべき唯物論を批判=否定するカール・マルクスです。しかし「マルクス」は現実的にカール・マルクスだったのであり、カール・マルクスなしに「マルクス」は存在しない。だからそれは無限に繰り返される自己批判なのです。


マルクスその可能性の中心 (講談社学術文庫)