私は一個の<プチ・サルトル>である

innhatrang2008-05-21



 総表現社会という言葉がある。

 検索すると、梅田望夫の『Web進化論』という本で出てきた言葉らしい。読んでいないからよく知らないが、たぶん、インターネットや携帯電話の発達によって実現される、誰もが簡単に自分を表現できる社会というような意味だろう。

 そういう傾向が、多くの先進国や途上国の一部でみられることは間違いない。実際、私の書いているこのブログだってそういうたぐいのものだ。自分の身の回りの出来事や、読んだ本、観たテレビ、起こった事件や参加したイベント、他人の書いたエントリーへの感想を書いて公開する。自分で書いた小説や、撮った写真、編集した動画を投稿しているひとたちもたくさんいる。

 そういう意味では、確かに私たちはみな表現したがっている。


 しかし、考えてみれば、いわゆる人気ブロガーのエントリーですら、閲覧するのは多くて何万人か何十万人かである。そのうち本当に読んでいるのは半分にも満たないだろう。しかも、それだけの読者がいるのはほんの一握りで、私のようなほとんど誰も読まないブログを書いているものが大半である。

 そんな状況で、自分の書いたものが言葉の壁を越えて世界中に共有され、永遠に記憶されるなどということなどあるはずがない。何を書いても、おなじ言葉を話すせいぜい数人から数万人の目の前を通過し、ほどなくきれいさっぱり忘れられて終わりである。とすれば、いったい何を期待して私たちは表現しているのだろう。


 そんなことを考えるとき、私が思い浮かべるのはサルトルのことである。

 20世紀半ばに活躍したサルトルは、小説を書き、戯曲を書き、哲学書を書いた。自伝を書き、他人の評伝を書き、映画や芸術の評論を書いた。そして新聞や雑誌や街頭で、世界で起こる事件に速やかに意見を表明した。世の体制的な見解に異論を唱え、新しい世代による改革を誘導した。誰もがその作品を読もうとし、その発言を聞こうとし、賛成するにせよ反対するにせよ、その存在を無視することはできなかった。

 ようするにサルトルは、ありとあらゆる手段を使って自らを表現し、それが多くのものによって受け止められたのである。

 とすれば、スケールは違うかもしれないが、私たちも同じようなものだ。小説を書き、マンガを描き、音楽を演奏し、動画を編集し、同時にそれらを論評している。世界で何かが起これば、すぐに自分の立場を表明する。右であれ左であれ、それが世の趨勢(体制的な言説)だと思えば、それに抵抗する意見を採用する。

 間違いなく、来るべき(?)総表現社会において、私たちのロールモデルとなるのはサルトルである。誰もサルトルを読まなくなったと嘆く人もいるようだが、それはある意味では当然かもしれない。私たち自身がサルトルなのだから。自分のことは自分がよくわかっているということだ。

 もちろん、サルトルと私たちとでは、おかれた時代も状況も違っている。冷戦は終結したし、グローバリゼーションの時代になった。情報網が発達し、大量の情報が瞬時に世界中を駆け巡るようになった。

 もはやサルトルのように、ひとりですべての情報を処理して判断することなどできるはずがない。だから私たちは集団でその役割を分担する。サルトルのような全体的知識人は消え去り、プチ・サルトルの集合体がそのかわりを果たす。

 そう、私たちはサルトルの縮小コピーなのである。


 しかし、このプチ・サルトルは、縮小コピーであるがゆえに、その考え方はオリジナルとは微妙に違っている。

 サルトルの考えは、ようするにこういうことである。社会は表現されたものによって成立している。<本当の私>というものも、表現されることではじめて社会のなかにある。しかし、その表現された自分は<本当の私>そのものではない。だから表現し続け、表現された自分を固定化させないことで、その背景にある<本当の私>を浮かび上がらせる。

 ここにはイメージを固定してしまおうとする他人と、それに抵抗する<本当の私>との闘いがある。つまり「他人を見るか自分が見られるか」の相克である。


 しかし私たちプチ・サルトルは、<本当の私>を表現しようなどとは思っていない。むしろ、表現された自分さえあればいい。それは「表現された私を見たい」であり、正確には「見られている私を見たい」である。

 例えば私たちは、インターネット上で他人の記事を引用し、それを編集したりコメントしたりすることで、自分の表現を作り上げる。それは、その表現が再び他人によってそうされることを期待してのことである。ときには、なかなか他人に言及されないので、他人を装って自分に言及することだってある。そうすることで、本当の他人が私に言及するきっかけになるかもしれない。そうまでして、私たちは「見られている私を見たい」

 このとき、どうして「見られている私を見たい」がために、他人の表現を利用するのだろうか。それは次のように考えればわかりやすい。

 「Aさんはこう言っていますが、私Xはこう思います」と書けば、少なくともAさんは私を見てくれるはずである。なぜなら、やはり「見られている私を見たい」Aさんは、自分のことを見ている私の記述が気になるからである。そしてAさんは私の記述を引用して記述する。「Xさんが、私のことをこう言っています」と。

 この記述に、私は「見られている私」を見る。一方、Aさんにとってもこの記述は、自分が他人に見られたことをさらに他人に示す意味がある。

 こうして「他人を見るか自分が見られるか」ならぬ、お互いに「自分を見られたいから他人を見る」という相互言及ゲームが成立する。これは相克ではなく、相互承認のゲームである。

 もちろん次第に言及される頻度が高くなれば、「Aさんは私のことをこういっていますが、本当は違います」と言うこともあるかもしれない。このとき、他人と<本当の私>との間に闘いが生ずるようにみえる。しかし、それはサルトルのいう「見るか見られるか」の相克ではない。あくまでも「見られている私を見たい」に支えられたプチ・サルトル同士の相互承認なのである。

 だからこのゲームでは、<本当の私>があるかどうかは、たいした問題ではない。それは、あってもなくてもどちらでもいい。記名であるか無記名であるかにもたいした意味はない。ただ、私の表現が見られさえすればそれでいいのである。


 もちろん私たちは、この相互言及ゲームの目的が「見られている自分を見たい」にあるとは決して言わない。それを言ってしまっては、ゲームが継続しないからだ。ゲームを継続させるためには、何かしらそれ以外の理由をもちださなくてはならない。

 実際、私たちは、どうして表現するのか、と問われれば、「他人に感銘を与えること」「収入を得ること」「人びとを啓蒙すること」「社会を変えること」あるいは「ただそれが好きだから」といった理由をあげる。これらはどれも表現に相互言及ゲームを超える意味があるということである。

 しかし、本当に表現にはゲームを超える力があるのだろうか。本音を言えば、私たちプチ・サルトルはそのことを考えたくない。あるいは、たいしてそのことに興味をもっていない。私たちの興味は、自分の表現にどれだけ人が反応したかにしかない。


 たぶん、総表現社会は、このようなプチ・サルトルによる相互言及ゲームが支える。実際、いまやゲームが成立しているのは、インターネットや携帯に限らない。テレビや雑誌や、書籍、学術論文の世界でも多かれ少なかれ同じようなことがおきている。

 しかし、この相互言及ゲームをこれ以上細かく分析したところで、たいして有意義なものにはならないだろう。それはようするに、表現が社会を覆っているという事態を言い換えているに過ぎないのだから。おそらく、私たちは表現の物理的な作用を知るべきときにきている。それは端的にいえば、わたしたちの社会が前提としている、生命と重力の存在に介入していくことだ。


 もっとも、そんなことをこんなブログで書いたからといって、何になるというのか。この私のエントリーだって、相互言及ゲームの片隅で消え去るのがオチだろう。

 しかし、それでも私は、私自身が一個のプチ・サルトルであるという自覚をここに記しておこうと思う。なぜかといわれても、よくわからないとしか言いようがない。おそらく<純粋な思考の伝播>というものがありうると、私は信じているのだろう。それがまったく馬鹿げた妄想であると、頭では理解しているけれど。