柄谷行人にウナギをおごってもらった話

4ヶ月ほど前に、柄谷行人に会った。


今年の1月、大阪で開かれるアジア感染症フォーラムに参加するため、半年ぶりに一時帰国した。

発表を終えたその日の夜、私は関西空港の隣にあるホテル日航の部屋で、ひとり缶ビールを飲みながら、ソウルの研究所とメールでやりとりしていた。

返事を待つ間、ちょうどそのころYouTubeにアップされたばかりの柄谷行人スタンフォード大学での講義を聴いた。

相変わらずだなあと思っているうちに、いつの間にか私は、柄谷氏に「ぜひお会いしたい」と英語でメールを送っていた。

発表が終った開放感に、酔った勢いが重なったのだろう。

翌朝、福岡に向かう新幹線のなかで、なぜあんなことをしたのかという多少の後悔の念がよぎったが、どうせ無視されるだけだろうと自分を納得させた。

夜、長崎に着き、大学病院の近くの浜口町の安ホテルでパソコンを開く。

ソウルからの大量のメールにまぎれて柄谷氏からの返事があった。

日本語で「会いましょう」と書いてあった。

「お会いしたい」と言って「会いましょう」と返事がくれば、もちろん嬉しい。

しかし、何のために会うのか考えていなかったので、頭を悩ませることになった。


***


振り返れば、私は柄谷行人のよい読者ではなかった。

1972年生れの私は、たぶんニュー・アカデミズムというものをリアルタイムで知る、ぎりぎり最後の世代に属する。

中学時代、通っていた広島学院の図書館に『構造と力』という本が置いてあった。

開いてみると、意味不明なカタカナの嵐のなかに、なぜか四文字熟語みたいなものが出てくる。

それが<柄谷行人>との最初の出会いだったと思う。

やがて高校生になった私は、その四文字熟語が日本の評論家であることを知り、紙屋町のそごうの紀伊国屋で『批評とポスト・モダン』や『マルクスその可能性の中心』などを何冊か買いこんで読んでみた。

当時、どれだけ理解できていたのか定かではない。ただ、あまり科学的ではない、「文芸評論家」だというイメージしか抱いていなかったことは記憶している。

結局、興味の中心は分子生物学や免疫学に移り、仙台の医学部に進んだ私は、ボート部で合宿三昧の学生生活を送った。

それは、その手の話から完全に隔絶されることを意味していた。

ときどき、合宿所帰りに立ち寄る生協の文系書籍部で『批評空間』をぱらぱらと眺めることがあったが、すっかり「理系」で「体育会系」に染まりきっていた私の頭には、それはまったく理解できない「文系」の世界であった。

その後の私は、基礎医学ではなく臨床の道を選び、地方の救急病院と途上国を渡り歩くことになる。

およそポストモダンや『批評空間』的なものとは最もかけ離れた世界である。

私自身、そんなものがこの世に存在することすら完全に忘れていた。


そんな私が柄谷行人と「再会」したのは、2年前にベトナムで暮らすようになってからである。

きっかけはたいしたことではない。

ベトナムに本を郵送するには高い関税がかかる。とはいえ、重い本を手荷物で運びたくはない。だから軽くて何度も読めるだろうと思われるものだけ、何冊かみつくろってスーツケースに入れた。

たまたま、そのなかに、当時出たばかりの新書『世界共和国へ』が入っていたという次第である。

それを読み始めてからの経緯は、このブログに記してきた。

結局、一時帰国した際に買ってきたり、Amazonで取り寄せたりしながら、1年間で全著作を読みきった。

それは不思議な経験だった。

私には、柄谷行人が何を考え、何を考えてこなかったのかが、すみからすみまで手に取るようによく理解できたのである。


***


結局、会う理由を捏造するために、二晩かけて「柄谷行人論」なるものを書いた(これが
innhatrang.hatenadiary.orgの原型である)。

当日の朝、新幹線で東京に行き、待ち合わせの新宿駅の喫茶店にむかった。

案の定、場所がわからず遅刻した。

私は東京に行くと必ず迷子になる。田舎ものだから仕方がない。

15分遅れで喫茶店に着くと、<柄谷行人>が座っていた。

待ち合わせの目印などは決めていなかった。

むこうは私のことを知らないのだから、今思えば、この待ち合わせは私が<柄谷行人>の顔を知っていることを前提として成立していたのである。

最初に遅れたことを詫びたあと、世間話もめんどくさいので、私は氏をまえに、いきなり柄谷行人論をとうとうと展開した。

氏は苦笑しながら耳を傾けるふりをしていたが、たぶん、ほとんど聞いていなかっただろう。

30分にわたって一方的に話をした後、氏は「自分のことを言われている気がしない、好きに読んでくれたらいい」と言っただけだった。


その後の話の内容について、細かいことはあまり覚えていない。

ただ、ほとんど生産性のないやりとりだったことは間違いない。

私は、氏のいう倫理や理念が、個別の現実を捨象するだけでなにも機能しないのではないかという問いを繰り返した。

その度に氏は、不快そうな反応をし、ときには怒鳴るようにし、ただ延々と歴史解釈の話をするのだった。


***


柄谷行人は一貫して人間と社会の関係を考えてきた人である。

著作を読めばすぐわかるように、柄谷は過去の思想家が書いたものを引用し、それを大胆に読みかえることで自らの考えを展開してきた。

他人によって<書かれたもの>をつかって書くこと。それは当初は自覚的な方法だった。しかし、ある時期からそれが当たり前のことになった。

そのとき、<書かれたもの>について<書くこと>が、そのまま<考えること>になってしまった。

それ以降の柄谷は、同じことの繰り返しである。

最近の柄谷は、歴史解釈や日本社会論に重点をおくようになったように見える。

しかしそれは、それまでカントやマルクスによって<書かれたもの>について書いていたのが、歴史や日本について<書かれたもの>について書くようになっただけで、実際には何も変わっていない。

そして何について書こうと、最後は「自由であれ(現実的には自由でなくとも、自由であるかのように振舞え)」という倫理、無限の未来において実現されるアソシエーショニズムという統制的理念の提示で終る。


柄谷はこの倫理=理念をめざして、個々人が個別の現実に対応すべきだと考えているようである。だから、私が「個別の現実はどうするのか」と問うても、「それはあなたたちが考えることで、私は理念を示すだけだ」という答えに終始する。

しかし、私はべつに、現実に苦しんでいる人たちの苦痛を取り除く具体策を示せと言っているわけではない。それはそれこそ、私のような仕事をしている人間が現に取り組んでいることだ。

ただ、この決して現実的時間においては達成されない倫理=理念は、あたかも現実において統制的に機能するかのようにみえて、実際には個別の問題を放置し、現実の流れに一切をゆだね、自らが<書かれたもの>と戯れるのを正当化しているだけではないのか。

「それはあなたたちが考えることで、私は理念を示すだけだ」という答えは、はからずも、その疑念が正しいことを証明するものであるように、私には思えた。


***


どうやら柄谷氏が、ベトナムからやってきた田舎医者に会おうと思ったのは、インドシナの社会や文化の話を聞こうと思ったからのようだった。

しかし、あいにく私は、そんな話をする準備をしていなかったし、そもそも興味がなかった。

私はいつしか倫理や理念について問いただすのをやめ、ただ歴史解釈の話を聞きながら、氏が話している様子を観察していた。

禁煙したらしい氏は、古代ギリシアの戦闘について話をする間中、水の入ったコップをいじりながら、ちびちび飲んでいた。

そしてそれがなくなると、話を途切れさせることもなく、やおら私のコップをとりあげ、自分のコップに水を移し、やはり同じようにそれをいじるのだった。

私も仕事柄いろんな人と会うが、初対面でそんなことをする人物はあまりいない。

そのとき私は、20数年前に図書館で巡りあった<柄谷行人>が目の前にいることが実感され、なぜかとても嬉しくなったのだった。


そんなこんなで、3時間くらいしただろうか、氏が夕食に誘ってくれた。

茶店の向かいにあるウナギ屋に行った。

座敷に座り、氏はメニューを見て「高いなあ」とぼそっとつぶやいて定食を注文した。

氏もまた資本主義的な観念から逃れられないのだなと思いつつも、私は日本的な常識にしたがって、それと同じものを頼んだ。

そこでは、たいしたことは話しなかった。

ただ、研修医時代、当直明けに東北新幹線に乗って紀伊国屋ホールの『批評空間』のシンポジウムに行ったときのこと(やはりことのときも迷子になったのだった)を話したとき、氏ははじめて嬉しそうな表情をみせ、「当時はあまり反応がなかったけど、最近になってようやく『批評空間』が重要だったと言われるようになったんだよ」というようなことを言っていた。

結局、氏はウナギをおごってくれた。

残念ながら、それが美味かったのか不味かったのか、さっぱり覚えていない。

別れ際、氏は「あまり参考にならなかったかな・・・」と言っていた。

もちろん私は礼を述べ、店を後にしたのだった。


***


話はそれで終わりである。

「あまり参考にならなかったかな・・・」という言葉は、どういう意味だったのだろう。

延々と喋っているのに、なんとなく不満そうな顔をしながら、途中から反論すらしなくなった私に、徒労感だけを覚えたのかもしれない。

確かに、氏にとって、私に会ったことで得るものは何もなかっただろう。

では私にとって何か得るものはあっただろうか。

それは、まだよくわからない。

ただ私には氏が考えていることが理解できるが、氏には私の疑問そのものがわからないことは、よくわかった。

氏は個別の問題に対して「それはあなたたちが考えることで、私は理念を示すだけだ」という。

しかし、この「あなたたち」の大勢は、決して氏の理念に従うことはないし、それを共有することもない。

にもかかわらず、誰もが個別の現実に対峙し、それと格闘している。

そしてそのすべてをのみこんで、現実はただ流れて行く。

柄谷行人もまた、そのなかで流れている一人にほかならない。

もし、そこで何かを少しでも変えようとするのなら、まず現実の流れを見極めなくてはならない。

それには徹底して非ポストモダン的な、あるは非『批評空間』的な世界にとどまり、そこから考えはじめる必要がある。

そのきっかけになったということにすれば、このささやかなすれ違いにも意味があったということになるかもしれない。