(5)
では本題に入ろう。
私はいったい何を問題にしているのか。
それは、この20世紀的思考が言明と言明に還元されないもののあいだに打ち立てた、恣意的で限定的な関係である。
そして言明のみを思考可能なものとし、それ以外のものを十把ひとからげに思考の枠外におくものの考え方である。
20世紀的思考は、決してすべてが言明であると言っているわけではない。
はじめから言明以外に何もなければ、なにかを言明に還元する必要もないだろう。
なにかを言明へと還元する作業は、言明に還元されるところのものを要請する。
しかし、言明に還元されるところのものが、言明化によって完全に言明に移行してしまっては、還元されるところのものがなくなってしまう。
これでは、やはり言明化が成立しない。
したがって、言明化には言明に還元されないものが不可避的につきまとう。
この言明に還元されないものが<語りえぬもの>である。
このとき、言明は<語りえぬもの>については、まさに語りえず、ただ沈黙するしかない。
そこで20世紀的思考は、言明そのもの(言明の形式)に<語りえぬもの>を重ね合わせる。
つまり言明のみを言明化の対象とするのだ。
このとき、言明そのものにおいて、言明化のサイクルが成立する。
これが言明の再帰的構造である。
この言明の再帰的構造において、言明はそれ自身に<語りえぬもの>を含むことになる。
もう<語りえぬもの>に沈黙する必要はない。
なぜなら、語ること自体が<語りえぬもの>を示していることになるのだから。
こうして20世紀的思考は、<語りうるもの>についても<語りえぬもの>についても、等しく饒舌に語るのである。
<図2> <語りえぬもの>について間接的に饒舌に語るが、さまざまな<語りえぬもの>のあいだの違いを区別しない。
たとえば「飢えた子を前に言明に何ができるのか」という問いについて考えてみよう。
この問いに応じて、「飢えた子」について緻密に言明化することはできる。
しかし、いかに言明を尽くしても、そこに「飢えた子」と呼ばれているところの存在の「飢え」そのものは必ず残る。
それが<語りえぬもの>である。
それは思考できないもの、到達できないものであり、それ以上は追求できないものである。
それは人智を超えた超越的な現実である。
20世紀的思考は、すべてを言明に還元する一方で、その結果として生ずる言明に還元されないものについては、暴力あるいは聖なるものという烙印を押してそれ以上の深入りをみずからに禁ずる。
そのうえで「「飢え」は<語りえぬものである>」と饒舌に語る。
あるいは「「飢えた子を前に言明に何ができるのか」という問いには無限の可能性がある」と積極的に主張する。
こうして地球上の2000万人の子供たち*1の「飢え」を、十把ひとからげに不可侵な領域に追いやるのである。
この言明の再帰的構造と、その枠外におかれた広大な<語りえぬもの>の領域こそ、20世紀的思考および現在のわれわれの思考を支配している世界なのである。
この世界では、言明だけが思考可能で操作可能なものであり、問題を解決する手段である。
何か問題があれば、ひたすらそれを言明化する。
そしてそれを思考し操作する。
それが20世紀的思考にとっての問題を解決するということだ。
では、<語りえぬもの>の問題に対してはどうするのか。
もちろん、それに対しても同じように言明で立ち向かうしかない。
それは有効なのか。
言明は<語りえぬもの>の問題に作用できるのか。
できるとすればどのように作用するのか。
それはわからない。
わかるはずがない。
言明だけが思考可能なものであり、<語りえぬもの>は言明に還元されないのだから。
だから20世紀的思考は、「飢えた子を前に<正しい意見>を言えばそれで「飢え」がどうにかなるのか」と問われると、とたんに感情的になるか、開き直るか、沈黙するしかないのである。
***
こうした言明と<語りえぬもの>のあいだの絶望的な乖離は、あきらかに現在のわれわれにとって足かせとなっている。
そこでは、すべてが一様に言明に還元され、還元されないものは、ひとまとめにして<語りえぬもの>である。
しかし考えてみよう。
一概に言明といってもさまざまである。
それが言語で記述されているなら、言語の違いによって言明の作用は異なる。
同じ言語で記述されていても、土地が変われば作用は異なる。
<語りえぬもの>だって同じだ。
泣きながら暴れている子供の腕を押さえつけてワクチンを注射する。
これは<語りえぬもの>の作用か?
小さな子供を失った母親の後ろで、なにも言わず、なにもできず、ただ立ちすくんでいる。
これも同じく<語りえぬもの>の作用か?
なんでもかんでも言明化できないものを不可侵なものとしてひとくくりにしてしまっていいのか。
そもそも、栄養失調にはさまざまなタイプがあるのだし、サブサハラの「飢えた子」とインドシナの「飢えた子」は違う。
にもかかわらず、それらを十把ひとからげに思考の枠外に追いやってしまうのが20世紀的思考のやり方なのだ。
そしてその結果、広大な<語りえぬもの>の領域が形成され、そこでさまざまな問題が噴出しているにもかかわらず、そうすればどうかなるというあてもなく、ただひたすらに言明を発し続けているのが、現在のわれわれの姿なのである。
それは例えて言えば、火事場で自分の尻尾を追いかけてくるくる回っているイヌのようなものだ。
自分では激しく何かを追及し、活動的に働いていると思っているが、実際には何事もなしていないのである。
誤解しないで欲しいが、私がここで「飢えた子」を持ち出したのはひとつの例にすぎず、決して「飢えた子」を救えといっているのではない。
問題は「飢えた子」ではなく、「飢えた子」という言葉に、無条件で救わなくてはならない、あるいは仕方がないからあきらめろというどちらかの反応しかでてこない考え方である。
あるいは「飢えた子」が本当に目の前にあらわれることはないだろうという高をくくった態度である。
そして繰り返すが、私は言明や言論が役に立たないといっているのではない。
誰だって言明を用いるし、現に私のこの議論だって言明を用いている。
ただ言明は、われわれにとって可能な手段のひとつにすぎない。
私が言っているのは、それだけを特権化してそれ以外のものをひとくくりにして排除するなということだ。
***
いま、われわれに必要なことは、言明に還元されないものを不可侵な領域に追いやるのではなく、そのなかに直接分け入ることである。
そして言明と同じように<語りえぬもの>について考え、そこで何が起っていて、何が可能なのかを丁寧に見極めることである。
こんなことを言えば、20世紀的思考にとらわれたものは直ちに反論するだろう。
<語りえぬもの>については考えられない、と。
<語りえぬもの>については沈黙するか、さもなくば饒舌に語り尽くすしかないのだ、と。
しかし、誰がそんなことを決めたのだ?
なぜ言明以外に思考はありえないと、考えもせずに勝手に決め付けてしまうのだ。
それこそ思考停止というものではないか。
私はここに宣言する。
間違いなく、思考は<語りえぬもの>に到達できる。
いや、<語りえぬもの>に到達するものこそが思考とよぶに足るのである。
思考は言明のはるか先にまで届く。
(次回、最終回)