予定通り、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』(財津理訳)を読んでいこうと思う。さしあたって、論旨を要約しながら、その内容を検討するというスタイルで読んでいくことにする。今日は、p13-p17の「はじめに」。

本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、次の4つの点をあげてよいだろう。まず、ハイデガーが、存在論的《差異》の哲学にますます強く定位しようとしていること。つぎに、構造主義の活動が、或る共存の空間における差異的=微分的な諸特徴の配分に基づいていること。さらに、現代小説という芸術が、そのもっとも抽象的な省察ばかりでなく、その実際的な技法においても、差異と反復をめぐって動いていること。最後に、無意識の、言語の、そして芸術の力でもあろうような、反復の本来の力が、あらゆる種類の分野において発見されていること。これらすべてのしるし(シーニュ)は、或る一般化した反ヘーゲル主義に数え入れることができる。

『差異と反復』p13

 この序文では、この本が、差異と反復についての考察であることが予告される。すなわち、同一性を前提とする表象=再現前化に対して、それに先立つところの、差異そして反復を探求すること、そして差異の探求と反復の探求は、ひとつにまとまっていくことが述べられる。ドゥルーズは、この試みを、反ヘーゲル主義と表現している。
 しかし、この「はじめに」で読むべきところは、こうした探求の予告ではないだろう。文章の大半が、著者がこの本をどのように書き、どのように読んで欲しいか、ということの説明に費やされているからである。

哲学の書物は、一方では、一種独特な推理小説でなければならず、他方では、サイエンス・フィクションのたぐいでなければならない。
同p15

ひとは、おのれの知の尖端でしか書かない、すなわち、わたしたちの知とわたしたちの無知とを分かちながら、しかもその知とその無知とをたがいに交わらせるような極限的な尖端でしか書かない。
同p16

ひとは哲学の書物をかくも長いあいだ書いてきたが、しかし、哲学の書物を昔からのやり方で書くことは、ほとんど不可能になろうとしている時代が間近に迫っている。
同p17

 ドゥルーズは、思考することと、書くことを明確に区別している。しかし、ドゥルーズにとって哲学とは、思考することそのものでも、書くことそのものでもない。それは端的に言えば、哲学史において利用可能な哲学書をつくりあげることである。

この書物が現前させるべきはずであったこと、それは、以上からして、神のものあるいは世界のものでもなければ、わたしたちのもの、すなわち人間のものでもないような、或る一貫性へのアプローチである。その意味で、この書物は、ひとつの黙示録的な書物になるべきはずのものであった。
同p16

哲学史は、絵画におけるコラージュの役割にかなり似た役割を演じるべきだと、わたしたちには思われる。哲学史とは、まさにその哲学の再生産である。
同p17

 「サイエンス・フィクション」「コラージュ」「黙示録」という言葉からは、ドゥルーズがこの本に、ドゥルーズ個人の思考や書くという作業から独立した機能を期待していたことがわかる。そこにあるのは、思考することや書くことから切り離された形式があり、それが書物において実現されうる、という期待である。確かに、表象=再現前化に先立つものの探求が予告されているのだから、もしそれが実現されるなら、ドゥルーズのこの期待は当然である。表象=再現前化そのものである書物において、それに先立つ形式を機能させることも可能かもしれない。
 しかし、表象=再現前化に先立つものは、何がそれほど重要なのか。表象=再現前化に先立つものを特別視するのは、表象=再現前化が前提であると、何の疑いもなく前提しているからではないのか。そもそも、そのようなものを語るのは哲学ではなく、単なる妄想ではないのか。こうした疑問を、わたしはドゥルーズに対して抱く。これについて、この本を読みすすめながら解決してゆかなくてはならない。
 これから、『差異と反復』の日本語訳を読んでいくとき、わたしは決して「テクストの読解」などには与しないだろう。ただ、本を読み、哲学的に検証していく。それはドゥルーズとは違った意味での、わたしによる哲学史=過去の哲学者の利用である。
差異と反復