なんだか、またあわただしくなってきた。長崎に戻るまでに序論を読み終わることができるだろうか。
 今日は、『差異と反復』p44-p50。

2つの反復――概念の同一性と否定的条件による反復、差異による、そして《理念》における過剰による反復(自然的諸概念と名目的諸概念の例)
要約:
 信号とは、複数のレベルをそなえたシステムであり、しるし(シーニュ)は、システムのなかで、諸レベルのあいだを結ぶ。
 しるし(シーニュ)において、2つの反復がある。全体的結果に関わる反復と、原因に関わる反復である。
 学習は、しるし(シーニュ)と応答との関係において行われる。

解題:
 まず、いくつかの基本的概念を明確にしたうえで、ドゥルーズの用語を整理しよう。

 われわれの経験的な世界を規定するものとみなされる、経験論的な系は、論理系と対象系から成立する。論理系は、推論あるいは対象によって規定され、対象系は、論理的述語あるいは現実的なもの*1によって規定される。この論理系と対象系の相互規定によって、経験論的な系を構成するものは、交換可能となる。これが、ドゥルーズの言うところの表象=再現前化である。しかし、前回、意識の自由に関して指摘したように、ドゥルーズは、経験論的形式と経験的なものとを区別していない。したがって、経験論的な系はそのまま経験的であり、経験的なものはそのまま経験論的に規定されることになる*2

 もとより経験論的形式とは、どこまでも形式化によって到達する形式であり、その地平なのであって、それは単数でも複数でもない。しかし、経験論的なものと経験的なものを区別しないドゥルーズにおいては、経験論的な系が、同時に経験的な特性を備えてしまう。その結果、諸系という概念が生じ、そして諸系の総体としての「信号」、諸系の間を結ぶ「しるし(シーニュ)」という概念が生ずる。こうして、しるし(シーニュ)は、諸系=信号の成立を支えることになる。そして、諸系=信号の成立を、内部と外部から支持するしるし(シーニュ)の機能として、2つの反復が指摘されるのである。以上が、今回出てきたドゥルーズの用語の整理である。

 さて、ドゥルーズは、この2つの反復の対比を明確にするために、いくつもの事例を挙げている。すなわち、等差的対称性と等比的対象性、6角形や立方体の対称性と5角形の対称性、5角形の対角線によって形成される複数の菱形と対角線の内部に形成される5角形、韻律とリズム、そしてルーセルとペギーによる、同形異義語ないし類義語の繰り返しとその語そのものの機能である。しかし、これらの反復の事例は、すでに概念の阻止の例において指摘したのと同様に、いずれも恣意的に構成されたものである。

 例えば、ドゥルーズは次のように言う。

重なりあった菱形の格子における静的な反復は、したがって、ひとつの5角形によって形成される動的な反復を指し示しており、そして「その5角形におのずから内接しているもろもろの星形5角形の縮小していくセリー」を指し示している。
『差異と反復』p46

 しかし、5角形に対角線をひくこと、そこに菱形の繰り返しを見出すこと、さらに内部に形成された5角形を把握することとは、形式的には相互に関係のない作業である。ましてや、菱形の繰り返しが、内部に次々と形成される5角形を指し示しているとみなす理由はどこにもない。にもかかわらず、そうした指摘が成立するのは、経験論的形式がそのまま経験可能であるために、経験的なものを根拠に、諸々の形式を結びつけることが可能だからである。つまり、5角形をみて次々に対角線をひこうと思うこと、そこに菱形を見出し、それが複数重なっているとみなすこと、そして対角線の内側に小さな5角形を見出すこと、さらにそれを繰り返すこと、これらが経験的に可能であることが、そのまま経験論的形式としての幾何学的図形の特性を規定するものとみなされる。そして、その諸々の形式の結びつきとして形成された諸系=信号において、ある特定の系を規定するものとしての反復と、諸系=信号そのものを規定するものとしての反復が区別されるとされるのである。

 こうしてみると、この2つの反復の区別は、経験論的な系を諸系=信号とみなすから生ずるのであって、もとをただせば経験論的形式と経験的なものを区別しないことに端を発している。ただし、ここで注意しなくてはならないことは、ドゥルーズは決して、両者を漠然と混同していたわけではないということである。それは、2つの反復の区別を指摘した直後に、学習を問題にしていることから明らかである。

 ここでいう学習の問題とは、表象=再現前化はいかにして経験的に交換可能となるのか、という問いである。ドゥルーズは、それを2つの反復の関係によって説明している。

或るいくつかのしるし(シーニュ)との出会いの空間においても、もろもろの特別な点が互いに相手の中で繰り返され、そして反復が偽装されながら同時に形成されるのであって、学習するということは、まさにそうした空間を構成することなのである。
p49

 このように、特定の系を規定する反復と、諸系を規定する反復との相互関係が、学習の空間を構成するというとき、おのずとその空間のうちにもひとつの関係が生ずる。すなわち、一方の反復によって規定されるものと、もう一方のそれとの関係である。これが、表象=再現前化における、経験論的形式と経験的なものの形式的関係を反映していることは明らかである。もし、その関係に気付いていなければ、表象=再現前化の交換可能性という問題にすら言及していないだろう。すなわち、ドゥルーズは、確かに経験論的形式と経験的なものを区別していないが、経験的なものが経験論的形式を構成し、経験論的形式が経験的なものを規定するという形式的関係がそこにある、ということについては、自覚的なのである。そして両者の区別は、それを区別しないことから生じた2つの反復によって、経験的に交換可能な(学習の)空間のうちに回収されているのである。
差異と反復

*1:厳密には現象学的形式の地平というべきであるが、ここでは、できるだけドゥルーズの用語に従う。

*2:これは、意識が、すでに経験論的に成立した表象=再現前化の関係を、そのまま経験的なものとして生きているということに等しい。それがドゥルーズのいう意識の自由であること、そしてそれがサルトルを踏襲していることは、すでに前回指摘したとおりである。なお、この経験論的形式と経験的なものの2重性が、『差異と反復』における諸用語のあいまいさと重複の一因となっていることも、指摘しておかなくてはならない。